「子供がかわいそう」、を考える。(その1)

「子供がかわいそう」という言葉を、先日議員「先生」になった「ヤンキー」の「子供達を守る」と
同じくらい嫌っている。この言葉を使う人間ほど「自分はかわいい」と言ってるものはいない。
つまり「子供をかわいそうがっている、とっても「いい人」の自分、うふっ」ってわけだ。
「子供がかわいそう」の言葉が使われる時はたいていその親を気に入らないときで、
その親本人を攻撃するよりも弱い存在であるその子供をねらって相手を不快に陥れる。
「子供は悪くないわよ、でもその親があれじゃあねえ、、そういう親に育てられてる子供だもん、
いずれはね、、」とにやにや笑いで結局罪のない相手の子供までを巻き込んで非難を広げている。
子供を「かわいそう」だと思うのなら、何故子供のことを持ち出すのか。
その「かわいそうな子供」に何をしてやるつもりもないのに、
「子供のことはかわいそうと思っている優しい自分」となんの関係もない子供を踏みつけにして
「自分」を飾る。あまりの愚劣に吐き気がする。
確かにかわいそうな子供はいる。
しかしその「かわいそう」を指摘したところで、何が出来るというのだろう。
「かわいそうな子供」の「ひどい親」に意見して、その手の親が指摘されたことで
突然「いい親」にでもなるとでも思っているのだろうか。
自分を非難する相手の意見を聞くとでも思ってるのだろうか?
「ああ、ご指摘ありがとうございます、あなた様はすばらしい方でございます、
あなたのような方にご指摘いただきましたのでこれから私は「いい親」になります、マンセーマンセー
と改心するとでも?
「ひどい親」がそんなことで突如「いい親」になると言うのなら、誰も苦労なんかしない。
本当の「ひどい親」にそのことを指摘すれば
その親は「ひどい親」であるが故に、確実に自分の子供を攻撃する。
「子供がかわいそう」とは、想像力の全く欠けた、無責任にそれを言う自分がかわいいだけの発言だ。
「かわいそうな子供だってわかる自分ってすっごくえらい、うふっ」と、そこまで自分がかわいいか。
「かわいそうな子供」と持ち出す人間はえてして自分は「理想的に育てられた」と主張する。
「理想的」に育ってそれかよ、と私は「理想」という言葉にまたしてもうんざりさせられる。
「理想的」に育てられた人間とは、かわいい自分なら現実に「かわいそうな子供」を
踏みつけにしても許される、と恐ろしく「ポジティブ」になるのか、
自分「だけ」を「大切」にする人間になるのか。そう思うと私は「理想」に絶望する。
私が今まで現実生活やネットで見てきた限り、「自分は理想的に育てられた」と考えている人間ほど
子供を持つ資格のないものはいない。そういう人は自分の延長線上に子供を見ている。
「かわいい自分」の一部としてしか、まったくの別人格である子供を認めていない。
故に、子供が「自分」の期待通りに育たなかった場合、
本当に「ひどい親」だけがする「制裁」を子供に加える、
「虐待」に過ぎないのに、それを「教育」だと言い張る。
「かわいい自分を不快にさせる子供は間違っている」「自分の子供なら、こんなことにはならないはず」
その思考回路は実に明快だ。子供にひどいことをしている意識もまるでない。
そういう親に私は決して「子供がかわいそう」とは言わない、
相手は「理想的に育った私が子供を理想的に育てている」と自信たっぷりで他人の話は全く聞かない。
が、人というのは不思議なもので、そうした親の元で育ちながらも、そのハンデを克服して
人をいたわる心を持つ立派な大人に育つすばらしい可能性を持っている。
私はおかしな親の元で育つ子供に出会っても、その親を乗り越えるすばらしさを見せてくれと、
近い存在であればその子供を見守る。それが人として、子供との関わり方だと思っている。
「子供がかわいそう」とは親ではなく子供を攻撃する言葉だと私は知っている。
一方で、小梨さん達がしばしば「自分のような親を持つと子供がかわいそう」」
と表現されることについて考えてみたい。(続く)