雑記。

「八日目の蝉」は小説も映画も評判がいいらしい。ほめているものをあちこちで見かける。
しかし、わたしはこれが書かれ、大喝采を浴びている状況にぞっとしている。こんなものがよく平気で受けいれられるものだな、と。
この小説の内容は、私が上の子を産んだころに、産婦人科から新生児が奪い取られた事件を思い出させる。
新生児は数か月後(だったか?)に無事保護されたものの、それまで、なんの理由もなく初めて産んだ子供を奪い取られた若い母親はどれほど苦しめられたことか。
連れ去った犯人は、子どもが欲しくてたまらない気の毒な夫婦で、子どもは大切に育てられていたようだったが、
それでも自分の初めての子どもが成長していく何ヶ月かを、自分の目で確かめることが出来なかった無念を被害者の方は簡単に忘れられないだろう。
「八日目の蝉」を書いた作者は、確か私と同世代なので、この事件を知らないわけではないだろう、ひょっとしたら、この事件をベースにした、と公表しているのかもしれない、
それならば、あれを書いてもまったく平気であるらしい「感覚」にやはり私は吐き気がする。
ここまで人間は残酷になれるのだな、と。
この小説ではどうやら連れ去られた子どもは、その後「幸せ」にはなれなかったようで、
そういう「結果」が平気で書ける作者、それを「面白い」と受けとめる読者、観客、なんともいえない。
あのとき、同じような新生児を育てていた私は「もし、この子が連れ去られたら、、」と何度か考えておびえることもあった。
あの恐怖は忘れられるものではない、無事子どもが見つかり、元の両親の元に返されたとき、どれほど私は安堵したことか。
朝日新聞で、ライターの島崎今日子がしつこいほどこの作品を大絶賛していて、それを見かけるたびに、私は「女」というものの「業」の深さにうんざりする。
自分で選んで子供を産まなかった女の「でも、もし、私が母親になっていたとしたら、きっと理想的に素晴らしい母親になったはず」のナルシシズムを感じるからだ。
自分で選んで「産まなかった」女は、産めなくなった年齢に達したとき、妄想の中で「理想の母親」となるようだ。
「かわいそうな子どもを大切に育てるかわいいアタシ」という恐るべき「女のココロ」がこの作品を評価させるような気がする。
子どもを連れ去って育てる主人公に思いっきり自分を投影させている、「こんなにかわいそうな素晴らしい私」にうっとりするのだろう。
選んで産まなかった女が「産まなかったことを後悔している」とはっきりと宣言しているのをまだ見たことがないが、
島崎今日子に類する女性が、この手の小説に異様に入れ込むところを見ると、やはり女は「産まなかったこと」を自分で選んでいても後悔するもののようだ。
私はそのことにも正直、ぞっとする。自分で選んでしなかったことへの無意識の後悔ほど、恐ろしいものはない気がする。
欲しくないから子供を持たない、という選択を私は尊重するべきだと信じてはいるが、
その後に「もし私が母親ならば、こんなに素晴らしい母親になれるはず」と思うのだとしたら、子供は持ったほうがいいだろう。
何もしないのに自分を「理想視」するよりはずっとましだ、しかし、この小説が評判になるのは、そういう女が増えているからなんだろう。
子どもが嫌いで子供を持たなかった男が「自分が父親ならば、こんなに理想的な父親になった」などという戯言をまだ聞いたことがないが、
男の場合、「自分に子どもがいたならば、こんなに素晴らしい人間に育ったはず」という妄想を持つという気がする。
男と女の意識の違いはこういうところでもあらわれるような。
なんにせよ、あの小説、映画をわたしは一生読んだりみたりすることはないだろう。
とにかく、なにもかも、薄気味悪くてしょうがない。