雑記。

「冷たく荒れた貧しい犯罪」という文を某所から読ませてもらう。
この寒々しい言葉に胸を突かれる、でも確かに犯人達になんの同情もわかない。
それをするのにはあまりにも被害者の方が気の毒だから。
彼女だって恵まれているとは言えない、30そこそこで、母親と二人暮らし、
派遣社員、深夜に帰宅途中で被害に遭ってしまった。
弱者が集まってひとりぼっちのより弱いものをねらった犯行、本当に貧しすぎる。
すさまじい貧困を自分が実体験したことがあるか、と言われたら、ない、と認める。
でも見たことはある、あまりにも悲惨で、やりきれなくて、言葉にする気にもなれない。
配偶者の仕事の関係でものすごい僻地に行ったことがあって、
こんな貧しさが日本にはまだあるのか、といわば「流れ者」だからこそのぞけた「世界」を知った。
腐った畳の上で生活する人がいるのだとこれを軽蔑せずにすんだのは、
私もまたそれほど豊かな育ち方をしてこなかったせいか、と思っている。
小学校時代はわからなくても、中学生になった頃、ちらほらと何故あの子はあんなのか、
知ってしまったりすることもあった。地元の底辺中学校に通っていたおかげ(?)と言えるか。
「こんなのは嫌だ」「こんな風には絶対なりたくない」中学生の私はそう考えるので精一杯だったけど
今、振り返って、「哀れ」と言う言葉を知らずにいた私も貧しさの仲間だったと思う。
私が自分の子供に私立校を薦めなかったのは、貧しさを子供の目で見ていて欲しかったからだ。
自分の体の一部として、いつかそれに寄り添う気持ちを持って欲しかったから。
格差とか貧困とか、会話の成り立たない議論をいくつか見てきて、
格差を努力次第とか言うのは、その努力の仕方さえ知らない人もいるってことが
ある種の人にはわからないせいじゃないか、と思う。
貧しさを地続きのものとしてみることが出来ないほど物質的に恵まれてきたか
自分がその貧しさから非常な苦労をしてはい上がってきたか、
特に自分が「努力」で何とかやってきた人はそれが出来ない人間を
もう1人の自分としてみてしまうんじゃないか。
そうなったかもしれない、そうだったかもしれない、自分。
地続きであったが故に憎まずにはいられないかもしれない。
恵まれた人間はそれを自覚し、弱い立場の声に耳を傾けなければいけない、
でも言葉が通じない、用いる言葉の感覚があまりに違いすぎて通訳が必要ではないか、
と思うことが時々ある。子供達にその言葉を知っておいて欲しいと思う。
反面、単なる同情心だけで、手をさしのべて、その手を食いちぎられないように、
貧しさだけが人を壊すのではないと、人を見ていて欲しいようにも思う。
私が大人になって見つめた貧しさに自分が何かできたかといえば、何も出来ていない。
せいぜい、自分の子供がその貧しさにまき込まれないように水際で見張ってるくらいだ。
子供時代に覚えたことは結局その程度のものであったかもしれない。
貧しさは、悲しい。