「痛い」を楽しむ、、、?

「痛い、を楽しむ」なんて書くと変態チックなんだけど。
私はこの「何故痛い」をじっくり考えるのが大好きだ。たとえば口内炎が出来そうなとき、
「はて、これは何故出来るのであろうか生理前であるからか、先日食った油ものがよくなかったか」
としみじみ考える。
その口内炎が「花盛り」になると、朝昼晩と味わうようにその形状をしげしげと眺める。
「周りが赤くなってきた、白いところも育ってきたな」などと大変痛いにもかかわらず
ようじでつついてみたり、その「痛さ」の「感触」を「楽しむ」。
端から見ればたいそう悪趣味な光景だろうと自分でも思う。
しかし、私の「痛み」とのつきあい方とはそういうものなのだ。
先日「腐ったにおいをかぐと元気になる」と書いたがこれも同じような理由で、
そのにおいはまずなんのにおいなのか、それは一体どこにあるのか、徹底追求をせずにはいられない。
「見なかったことにしよう」なんて納戸が家の中にいくつかあるが、そこから少しでも臭いにおいが
しようモンなら、何を置いても私はそこを掻き出す、「どこなの?どこ、どこ?」と。
それはきっと「うれしげ」にも見えることだろう。
結局「臭い」も「喜び」にかえている、「痛み」も、そう、とその貪欲さに私はちょっと反省もする。
不快なことを追求するのも大好きだ、学生時代に先生が「嫌いなものを突き詰めれば自分が見えてくる」
のようなことを語られて、そうでなくてもどこかで「自分探し」の影響を(嫌いでしたが、この言葉)
受けている私は「嫌い」「不快」を反芻せずにはいられなくなった、
いわば「お墨付きをもらった」ってワケで。
他人から見れば、何も痛みを強化するようなことをしなくても、と思われているのかもしれないが、
私にとっては、これは「楽しみ」の一つなのだ。
これに理解を示してくれる人が少ないのが非常に残念なのだが
結局「おたく趣味」の反対なんじゃないか、と最近ちらっと思った。
「おたく」の人は自分の好きなものを徹底解剖する、
私は「好き」なものは「好き」であるだけで満足して、自分が何故それを好きか考えたりしない。
むしろ「好き」の理由を知ってしまったら、好きじゃなくなる気がして嫌だ。
好きは好きのままおいておくために解体せずにいたい。
でも「おたく」はそれはしない、何故好きなのか、恐るべき熱意を持って「好き」に立ち向かう。
私が「痛い、嫌い、不快」に立ち向かうと同じ情熱に違いない、と思う。
その感情の根本、「理由」を求めているんじゃないか。
「理由」の追求は、果たしてどちらが多数派なのか。
「楽しんでる」のはどちらも同じ、よそから見て、見栄えは、まあ、どっちもあんまり良くはないわな。
「どうせ痛いんだ、ええい、やけじゃー!」が、やはり「痛いを楽しむ」の理由かな。
話は変わるが、ポケモンショック、の後、どこからか問題のビデオをわざわざ借りてきて、
さすがに子供に見せる勇気はなかったらしいが夫婦で暗いところで見てみた、という変人が
私の知り合いにはいる。どこがそうだったんか、結局わからんかったそう。(これは怖いもの見たさ、か?)
レアケースだったのかと思ってたらNHKでもあったんだなあ、知らなかった。
やっぱり「悪い」と「良い」なんて明確に分けられないよね、安心した。どうもありがとう。