つづき。

昨日の話の補足。あの「ジブリかディズニーしか見せない」の話が出たとき、
確かポケモンか何かを見ていた子供がけいれん発作かてんかんかを起こした事件があった頃で、
それ以降すべてのアニメ番組では「暗いところで1人で見ないで」と言う、
子供だけが見てるご家庭だったらなんの役にも立たない注意書きがはじめに出るようになったと思う。
(で、結局、あれは見ていたアニメのせいだったのか?)
「見せるならジブリかディズニーだけ」が「親としての常識」的に話をされて、
当時うちはポケモンは見てなかったけどポケモンシール集めとかがはやり始めた頃でもあったので
それにかんするトラブルなんかもちらほら、まあ、そういう条件が重なり合った中での発言だった。
見せるアニメの善し悪しは親のフィルターがかかってる、ってことで
これが子供の「個性」となるのかな?と思ったり。
いいもの「だけ」を与えたい、は「理想」としていいことなんだと思う。
ただその中に「独善」はないか、「選民意識」はないか、それがいつも私は気になる。
「いいものだけを与える!」の人は「悪いものを取り除く苦労を子供のためにしていない!」
と言いがちだし。「選別」の手法に間違いはないのか、の迷いもなさそうにみえる。
しかも自分は理想的に育ってきた、と主張する、それでこれかぁ、と、私なんかは考えるわけだが。
おお、いつもわかってくれている!の人のところで、同じ考えなのを確認してうれしいのだけれど、
どこかで、他人の「理想」に対峙する自分の「理想」もまた「独善」「選民意識」があるんではないか、
と気になる。私は子供に出来る限り「独善」に走ってもらいたくない、と思いつつも
その考え方自体が「独善」ではないか、と考えることがよくある。
「独善」に走らせまい、としてかえってそちらに押しやってるんじゃないか、とか不安は色々、今でも。
ふと、私以外が親であったらこの子はもっと幸せではなかったか、と考えることさえある。
至らない私を親に持ったが故に与えられるはずのものが与えられなかったのでは、としょっちゅう思う。
それでも「親」であることから逃げることは出来ない。
その上でまたそんな考え方(親であることへの完全な責任感を持つ)をしていてもいいのか、とも悩む。
至らない親である自分が与えられないものを考える、
それもまた、「いいものだけを子供に与えたい」親であると言うことなのだろう。
「いいものだけ」の考え方は自分の弱さを吐露しているのかもしれない。
少し前にトラックバックをくれた人が死ぬ前でも子育てを後悔しているかもしれない、
と言う意味のことを書かれていて、これを言われると子供は不安かもしれない、と思いつつ、
「これも出来なかった、あれもしてやれなかった」と後悔しながら死んでいくのも親の正しいあり方か、
と感じた。本当に親であることを考えるのは難しい。
親の弱さも受け止めながら育つ子供達や、育ったかつての子供達を見ていて、
「理想の育児」とか、「いいもの」とか「悪いもの」とかっていったいなんだろう、と考えている。
何をどんな基準で決めるのか。
ただ親を追い越す価値観をいつかどこかで持って欲しい、
そしてそれが出来れば「いいもの」であって欲しい、と、結局、まだ整理できないのでした。
様々なことに今も迷いつつ、でも子供はすぐ親を追い越してしまいそうなので、
まだまだ追い越されたくないと親、であると同時に大人、で人間、の私は考えている。