雑片。

昨日私の地区の朝日新聞では1面に広告を載せていた「幸せな、お産」の吉村先生を
ご紹介くださった方のところから、再び楽しげな「すばるせんせい」を教えていただく。
最近笑っていない私がつい笑ってしまった、イヤーいやされるぅ。
こんなに愛らしい方をこちらはどのようにして探されるのか、
あんまり面白かったんで、ウオッチングリストに入れる。解説を、もっと。あー、楽しかった。
いやされると言えば私は林先生の端正な文章を読むと心が落ち着く。
なんと均整のとれた言葉を用いられることか、骨格の確かな文章は音楽のように心にふれてくる。
知性はやはり見せびらかすものではなく匂い立つものだと当たり前のことをしみじみと
この泥沼のネットの中で感じさせてくれる。きれいだなあ、と思うのは不遜ですらあるか。
注文してすぐ届いた「民主と愛国」だけどまだ全然読みなおせていない。秋になったらゆっくりと。
上の子が先日、話題になってるらしい「裁判官のお言葉」なるものをねだったので買ってやったが、
後で見ると、何ともな、な文章、内容、娘も途中で嫌になったらしく放りっぱなし、
「なんか、この人、変」、だから言ったでしょ、新書は岩波か、中公にしとけって。幻冬舎だもんな。
小熊英二さんの「日本という国」を去年子供に読ませて、
さらっと読めたのはやはりちゃんと書ける人だからなんだよな。
文章のリズム、言葉の感触、こういうのが子供にも少しはわかるっぽくてうれしい。
勉強が出来るとかよりも読み取る力を持ってくれることが私のひそかな願いだったのでよかった。
降り始めた雨を吸い込んだ町中の生暖かいアスファルトのにおいと、
乾いた土に雨のしずくが初めて落ちたときの力強いにおいが違うように、
同じことを書いてもどこかで違う、そういうのがわかってくれたらいい。
どっちが好きか、は任せるんだが。
先日、小田実さんを「大きな人」と鶴見俊輔さんが評していたと、新聞で読んで
(大江健三郎が書いてたかな?)「大きな人」っていい言葉だな、と思った。
年上の鶴見さんから「大きな人」と呼ばれるのはいいな、と。
鶴見さんは丸山真男さんのこともそういう表現をしてなかったかな、
その「大きな人」という、優しい言葉の伝えるものが、鶴見さんの繊細な暖かさ、だったり、
小田さんのおおらかさ、だったり、丸山真男の真摯さ、だったり。
今、「大きな人」と呼べる人はいるのかな?「大きく見られたい」「見せたい」人はいるけど。
(小林よしのりとか?)
男性よりむしろ女性の方にいるかな、「大きな人」、中村うさぎさんとか、西原理恵子とか。
でも女で「大きい」ってのは男と違ってなんか本人達にはびみょーな言葉かも。
おお、しずちゃんがいた、しずちゃん、いいよな、おっきくって、渡哲也を包み込んでる。
そういう大きさ。あ、こんなこと書いてると、小田実さんや丸山真男ファンに憤死されるな。
でも大きい、が意味する優しさ、柔らかさは今は女性にしか見られないのかも。何故なんだろう。
男性もまた、「等身大」の時代かな、それでもう、いいんだと思う。
大きくなりたい、大きくありたい、とずっと願っていた人がいなくなった。病のために小さくなった。
とても悲しかった。