雑談。

最近ばたばたしとったんであんまり読書が出来てない。西原理恵子さんの「できるかな、クアトロ」を読んだ。
最初のが泣けた。最初の数ページとその章のシメ。「しぬときのけしき」は、私も随分前に見たことがある。
あれから何度も何度も繰り返し夢の中にでてくる。そういう「けしき」に出会うことはまれだ。
それは幸福とは限らないし不幸でもない。西原さんはやっぱりいいなあ。そういうのが言葉にできる人はすごい。
大分前に苅部直の「丸山真男リベラリストの肖像」も読んだ。この人の文章は読みやすくてよかった。
同時期に北田暁大を読んでて、この方の書くものも面白かったがやたらに外来語を使ってくれるので四苦八苦した、
ある種の外来語の多用ぶりには涙がでてくる。ところで幼児期から英語を教えるのは反対だ。
中学生までは日本語をしっかり覚えさせてくれ、尊敬語とか謙譲語とか文法とか古語とか、そんなのはどうでもいい、
言葉の「概念」をきちんと覚えさせて欲しい。言葉そのものの持つ「力」のようなもの、
「核」と言うか「芯」と言うか、そういうものがはっきりわかっていたら外来語を日本語に
置き換えるのは簡単なはずだ。それが出来ていないうちに外国語にふれさせるのはいかがなものか、
と思うんだけどなあ。言葉の概念のしっかりした人の書く文章は素晴らしい。
自分が書くようになってからそのことがわかってきて、読むのがより楽しくなってきた。
だから私は書くんだと思う。わかると自分の馬鹿ざらしの文章が嫌にもなってきますが。
苅部直の「丸山真男」ヘのまなざしはやさしかった。だからといって丸山真男に甘いわけではない。
真面目な尊敬の念は対象の真実の姿により深く達するのだと私は思う。
最後は庄司薫の小説にでてくる丸山真男像にも触れていてそれがなんとも感動的だった。
丸山真男を神のように、水戸黄門の印篭のように持ち出す人間がいるが、そういう人の理解を
遥かに超えた偉人であったと、また、丸山真男を攻撃することで自分がひとかどの人間で
あるかのように振る舞う人間がいかに愚かか、丸山真男は「象徴」ではないのだ、あくまでも「人間」だった、
と、感じさせる読みやすい本だった。ほんで丸山真男本体を読まねばいかんのだが、
実家のお父ちゃんに丸山真男はあるかと聞くと「おー、まっとれ、」と言って今、発掘中。
このあいだは鶴見俊輔がたんとでてきた。読んでない。家にあると読めんの、私は。借りんと読めん。
(漫画は別腹)
人へのまなざし、と言えば私は小熊英二さんの書き方が好きだがこのあいだ「イナバシンイチロウ」とか言うやつが
小熊さんについて書いてあるものを読んで、イナバってやつはなにを専門にやってるやつか知らんがアホじゃ、
としみじみ思った。どうでもいいようなことにしか目がいかんのね、そういやこいつは西原さんについても
書いてあったけど、こういう「見下し目線」でしかものを見られない人間っているんだ、と感心した。
同じもん読んでも違うもんやねえ。なんか自信がついたわ、自分に。
小熊英二さんについて以前親切に教えてくれた人のところを毎回楽しみに読んでて従軍慰安婦の事を
「sex slave」とか「forced prostitution」と表現すると知った。
「sex slave」は頭韻で、より扇情的だなあ、なんか産経新聞的。そういう捉え方なのかな。
ここのコメント欄では色々考えさせられることがあったのでまた書く。
それにしても身内に海外の研究所で勉強(?)してるのがいるんでこういう方にお声をかけられると
ものすごく「ギクゥー」となる。いつか「あんた、こんなところでナニやっとるんですか」と見つかりそうで。
私がネットで一番こわいのはそれだなあ。(専門の全く違う人で心からほっとした。)
新婚当時、失敗してトラウマとなったぬか漬けを上手に作ってるのがにーくーいー、、
自称東大生に絡まれとった仏文の人が「どっちがアホ?」と聞いてるのでこっそり、
「間違いなくあかとりの方がアホ」と、保証。最近の東大生はほんまにあんなにアホなんか?