日常。

今年は複雑な夏だ。結婚や出産がある一方で最年長の身内との別れが迫っている。
医師として中堅どころとなった同世代達の覚悟は時にむなしく見える。
しかし私もまた、同じく一つの世代が終わるのだと乾いた考え方をしている。
もっと話を聞いておけばよかった、と思う。
昨日に引き続き、「モンスターママ」とでも呼ぶべき不登校の息子を精神科に連れて行った母親の話だが、
結論として紹介された先で息子はリストカット家庭内暴力をふるうようになったと
首にされた精神科医は紹介した診療所の医師から話を聞いたそうで、
守秘義務云々などはこの際無視して、私はリストカットや暴力はある意味明るい兆しかも、
と思わずにいられなかった。少なくとも息子は動き始めたのだから、私は回復の証拠だと受け止める。
自傷であれDVであれ、自分で選んだことをし始める、自殺に至ってないのは罵倒しながらも
母親は子供に愛情があるのだといつかこの息子は母親から離れて自立することが出来るのでは、
と私は可能性を見いだす。「つり」なのだろうか、この手の記事は。
なんにしてもこんな親ではない、で安心してしまうようではやや先行き危ういと私は思う。
彼らの悲劇は身近な悲劇で、自分たちも同じことになるかもしれないと不安を覚える方がむしろ安心だろう。
親は多かれ少なかれ子供のかわりにある程度の決断をしなければいけないので
その決断が果たして正しかったかどうかいつも不安に駆られている。
私も子供に勉強を強いている部分もある。正直、強いなければ子供は勉強なんかしない。
こんなに誘惑あふれた世界で誰が好きこのんで地味な「勉強」なんて作業をするものか。
それでもしなければいけないのが「勉強」で、私は「嫌だけどしなければいけないことをする」
を教える意味でも「勉強」を強いることは必要だと思っている。
とはいうものの、何時間もやらせるほどの根気が私にはないんで、フィクションの彼女のようなことを
していないだけかもしれない。自分でもあまりよくわからない。
他人から見てどんな親であるか、それを気にするようではまともに親なんかやってられない。
「子供のために」「私のために」「尽くしてきた」
それがかけらほどもなければネグレクトの親とほとんど変わりなくなるのではと私は思う。
それでもそれがすべてであるか、と言えば決してそうではない。加減が難しい。
血のつながりが冷静な判断を狂わせるんだろう。
私は生きている人間は必ず生きているうちに救いがあると考えたいので
このフィクションの親子に似た人たちも絆の回復はあるのだと信じたい。
被害者でかつ加害者の親になってしまった両親にしても。
私は「この親は間違いだ!」とレッテルを貼ってなんになる?と言いたい。
それをして「終わり」になるのなら、なんにも言わない方がましだ。