雑記。

子供を持つことが「ステイタス」と考えられているんじゃないかと最近思うことがある。
持てる自分、持てない自分、そのことで上下するような自己評価は全く意味のないものではないか、
と私は思うが、持てないことで自分を悲劇の人物化する人間さえも存在するようで
それは子供を持つ人間を攻撃することを正当化する「道具」にもなる。
問答無用の威力を持つ、この「ステイタス」の恐ろしさよ!
結婚が収入の証明であるかのような言説があり、
そこから派生したものかと考えているが定かではない。
確かに結婚にも出産にもある程度の費用はかかる。
しかしその事実がいびつな形で「ステイタス」化していて、
「結婚できている自分」=「それが出来る収入」=「有能」、と簡単な自己愛に
つながっているようで「子供」を持つことでさらに自己愛が肥大化していくのではないか、
特に自己愛の激しい人間ほど「自分の」子供を持つことに執着心を抱くような気がしてならない。
私の結論からして、そういう人間は子供を持たない方がいいのだけれど。
「自分」という「種」を保存する、本能なのか、刷り込みかわからない
考え方をしている人間がいざ自分の子供を持ったとき、その子が自分の思い通りに優秀であれば
申し分のない満足感が得られるけれど自分の期待に外れた子供であった場合、
その絶望感は計り知れないだろう。
そういう観点で見ればどこからフィクションであるかわからないがあるところから読んだ
子供が不登校になった専業主婦の母親の異常行動は説明がつくのだが、
さて、これが専業主婦であるが故に起こったことであるか、母親だけが悪いのか、
「ありがち」と片づけられてかまわないものかどうか、私は疑問に思う。
私はこのできすぎな話の中の精神科医の対応のまずさに
もしこうした苦しみを抱く母親がいるのなら絶望を感じるのではないか、と心配になった。
子供の不登校に学校か家庭に問題があるのは素人でさえわかる。
カウンセリングを行う精神科医が母親に「提案」をするとはとてもまともだとは思えない。
カウンセリングがカウンセリングであるのはまず患者に話をさせるからだ、と読んだことがある。
相手の話を「聞く」のがその主要な仕事であるにもかかわらず、
フリースクール」などと言う適当な提案をした時点で彼の精神科医としての力量を私は疑う。
これは子供を学校に「不適応」と烙印を押したにすぎない。
母親を追い詰めたのは紛れもなく精神科医で、彼女だけを頼りに生きてきた子供を
もし大事に思うのならまずは母親を懐柔するように彼女に同調するのがやり方だろう、
彼女が精神科医を変えたのは正しい判断であると私は思う。
それにしても設定的にまるで産経新聞を読んでいるようだと私は感心もしている。
たたくべき存在として、スケープゴートとして、そんなに「母親」が必要か?
世間の、それでも「母親」を求めずにはいられないほどの愛情の欠乏をふと感じた。