「いい親」、ということ。

私もずっと「いい親ってなんだろう」と考えている。
「いい親」って自分で思うだけでは足りなくて、でも他人からの評価だけでは計れない。
子供の評価も子供はまだ自分の尺度がないから子供には「いい親」であっても
将来的に見てどうか、本当に難しい。
他人を「おぞましい親」などと断罪できる人間は自分はさぞかしよい親だとの自信があるのだろうが、
私が知る限り、そういう人間の子供はいびつに育っていることが多い。
また、親である他人を非難する人間に子供がいないことも多い。
残酷な真実を述べよう。幻の子供の理想の親になら誰でもなれるのだ。
今、歯科医師の子供の殺人事件の公判が雑誌の見出しに時々載っていて、殺人者である兄の方を
あくまでかばおうとする両親に非難めいた論調が多い。
被害者の妹に対して愛情はなかったのかと疑いたくなるような行状の暴露に
私もあんまりだと思うこともある。
ただ、以前にも書いたように生きている子供だけを必死で救おうとしているかもしれない両親の思いを
誰も推し量ることが出来ないのは事実だ。
死んでしまった妹をどんなに愛していたとしてもそれが彼女に伝わることはもうない。
せめてまだ生きている息子に、おまえのしたことを許している、
どんなことがあってもおまえのことを見捨てない、とそれだけを伝えようとしているのなら、
私はあの両親を理解できる気がする。公判で何を言って何をしたかこれだけ注目を集めた事件なら
雑誌でさらされるのは覚悟の上だろう、
「おぞましい親」だと思われてもかまわない、とその選択は立派だとも思う。
親である他人の心は、同じく親である私にもわからない、そのことだけは親になってよくわかった。
子供を通じていろんな親に会い、「これは違うんじゃないか」と思うことは正直よくある。
しかし翻って私自身はどうなんだ、果たして「理想的」な母親か?「理想的」な人間か?
とこれにもし「そうだ」と言える人間がいたとしたら
「そうですね、何が何でもたくさん子供を産んで増やしてください、
きっと理想の社会が生まれるでしょう」と私は言うだろう。
自分は理想の人間だと主張し、自分とは違う考え方の人間をためらうこともなく断罪する、
そんな人間が満ちあふれたら、世界はさぞかし住みやすいだろう、私なんか滅んでしまう。
まさに「美しい国」だ。
私は今、親である私たちを囲む状況がひどく昔の学校生活に似ていると思うことがよくある。
まるで親に「偏差値」をつけるかのような子供の教育への情報過多、
「あれをしろ、これをしろ、さもないと」と脅すような国の指針、
「世の中は間違いだらけ、でもこれだけは正しい」と怪しげな声、
かつての管理教育、とされる学校生活がそうだった、意味なく厳しい服装チェック、
脅しつけられて詰め込まれる学習、先生に締め上げられ同級生のヤンキーからは嫌がらせされ、
世界は敵だらけだった。
今、子育てしている大勢の親も多かれ少なかれ同じような状況にないだろうか?
社会は親である人間にひどく厳しい、かつて生徒達に学校がそうであったように。
おまけに国の指導者の一員に「ヤンキー先生」だ、あまりの一致に笑ってしまう。
それでもなんとか、親にまでなれた私たちを不慣れであっても一生懸命子供を育てようとする私たちを
誰が責めることが出来るんだろうか?つらいことが多い学校生活でも楽しみを見いだしたように
夢を持ってかなえようと努力してきたように間違いながらでも子供を育てようとしている。
小さな子供のほんの少しの差に焦ったり、自分のやり方をためらったり、今までの自分を考えたり、
自信がどうしても持てないままに親であることの責任をとろうとしている人こそが
私は「いい親」だと思っている。子供にとっては間違いなく。
「いい親」の理想とは子供達がそれぞれに違うように、曖昧な表現でもある、
でもおそるおそるその理想を手探りする親はいつか「理想」の親になれる、と信じている。
スノボに行った間に子供を火事で失った母親も、子供全員を伝統ある私立校に通わせていたのに
こんな事件を起こさせてしまった歯科医夫婦も同じ親として、
それぞれ「理想」を目指していたと私は同情してやまない。
しかしその理想への道のりのどこかで間違ったばかりに犠牲になってしまった子供達の命を
両親への同情心よりも遙かに深く悼んでいる。
彼らと同じ間違いを犯さないために何が出来るだろう、
「いい親」であるために本当は何が出来るんだろう、
たいていの親がそうであるように私もわからないで苦しんでいる。
でもその苦しみを肯定し、また子供もいつか大人になったとき、同じように苦しんで、
その果てに自分を肯定できたら、きっと私は「理想」にたどり着き、
「いい親」になれたんだとぼんやり感じている。まだまだ先は長い。
(やっぱり「いい親」じゃないんで、どうもまとまってない。でも送信)