雑記。

日常生活でどうしようもない現実に今直面しているので別なことを考えることにする。
こんな風に考えてもどうにもならないことを「考えない!」とスイッチが入ってしまう自分に
うんざりもする。年をとったってことなんでしょうかねえ、、
大阪市の中学校で給食完全廃止って、えぇえぇえぇー、どういうこと?
じゃあ、中学高校と毎日弁当、ってか、学校に給食設備があるとこなんかどーするんだ?
「カフェテリア」になるんか?ああ、明日は我が身と迫ることよ、
へたれな私は仕事して、介護して、弁当作って、なんて出来ないぃいぃいぃ、、、
でもしなきゃいけない人はするんだよ、これはあまりにも人間のできが違いすぎると白旗。
じゃあ、弁当を持たせられないから子供を学校に行かせない、の親もきっと出てくるよ、
こういう人たちは「行かせ『られない』」じゃなく「行かせない」というんだよ、
『出来ない』とは決して言わない、それを言うとあまりにも自分が惨めすぎるから。
「自分の意志」で『行かせないことにした』とうそぶくんだよ、『学校なんていらん』と。
あんたはいらなくても子供はいるかもしれないんだよ、でもそれを思うと
自分の情けなさが身にしみてしまうから突っ張る、あるいは、もうなんにも考えない、
お昼がつらいから学校に行かない子供を意識しないようにする『ネグレクト』、
「みんな、びんぼがわるいんや」とばかりはいえないけど、「考える訓練が出来ていない」も
『貧しさ』からじゃなかったか、と私は最近思う。
剣道部にも片親の家庭で剣道はとても上手なんだけど試合にこない子がいて、
何故かというと、「お弁当」が用意できない。
もう中学生なんだからお弁当くらい作れるだろう、と言われても
そういう弁当を作るやり方を教わっていない、
おまけに朝むちゃくちゃ早く出発しないといけないから、その前に起きてお弁当を作るなんて
子供には不可能だ、生活のために働く親にも無理な話だと思う。
そして会場に行くのに送り迎えが必要で、それを毎回他人の世話になるのも嫌なのだ。
「全然気にしなくてもいい」と繰り返しいっても、かたくなに拒否する、
お弁当も一人作るも二人作るも同じだから、と私が用意しようかと思ったけど、
私がいなくなった後、その子の面倒は他の誰が見るのか、の当然の意見で
却下になった。
時々、お金があってお弁当が買える時とか最後の試合でお弁当あるからね、
と念を押した時はちゃんと来た。部費も払ってくれる、防具だって買ってもらってる、
でも防具のどれほど高いことか!一番安いものでもセットで7万は必要だ、
昨今の日本の剣道の衰退はこういうところから始まってるんじゃないか、
なんてド素人が考えたりして。時々試合に出てくれるのでもいいかと私は思っている。
他人の世話になりたくない、のプライドを大事にしたい、
でも本当は親なら、他人の頭を下げても子供のしたいことをさせるべきじゃないか、
と考えられるのは、私がプライドを大事にしなくてもすむくらい
恵まれた環境にいるからだろうなあ、、
私がいつもはらはらしながら心で「お姉様」とお慕いしている3人ご子息を持つ
立派なお母様のところでは、面倒を見られている生徒の親たちがまた、
これが面倒見てもらわなかった風の親御様方で、そんな基本的なことも出来ない親は首にしろ、
と心から思っても出来ないよね、見捨てられない、でも見捨てても仕方がないかも、
ああ、本人達がもうちょっと考える余裕があったら、
自分は無茶を言ってる、と気がついてくれたら、でも私が教えることなんか出来ないぃいぃいぃー、、、
卑怯なんです、下手な恨みを買いたくないんです、「実生活」では。
ああ、出来ないことばかりの世の中です。
キャラ弁」と言えば昔、上の子が通った保守的な農業地区の小さな幼稚園で、
そういうお弁当を作って持たせると反感をかってしまったことを思い出す。
「最近の若い母親は見かけばっかり」って、新参者には厳しいのよ、そういうところでは。
でも別れるときは本当に色々よくしてくれた、受け入れてくれればものすごく居心地がいい、
それまでの道のりが山あり谷ありなのですが。
ふと、安陪ちゃんは敗戦記念日靖国参拝するのかしら、なんて考えたりする、疲れてます。