みくろでおさきまっくろ。(特に意味なし)

「親学」に関することで「マクロ」と「ミクロ」の話しを読ませてもらう。
自分で決められる人間が「ミクロ」であるかどうか、「ミクロ」であれば「マクロ」に押しつぶされてしまうのでは、
いずれ親として子育ての「決定権」を失うのではないか、の心配をしている。
昨今の「スタンダード」とは「数」の威力で少数派を圧倒しようとするもののようで、
そういうことが「正しい」とされるのならば私は「正しい」側にはいたくないと思う。
これは根拠なくプライドの高い人間である私の言わば「矜持」みたいなもんで、
つきつめれば「ミクロ」でありたい自分の個性のなさを恥じてるってことなのかもしれない。
つまり私は「マクロ」な人間なのだ。
自分で決められない人間のほうが「マクロ」であると私には思えないので、「親学」に威圧を感じる。
こうした一つの「指標」を見せられた時、その指標がどれくらい「ゆとり」のあるものなのかが気になる。
多かれ少なかれ人は自分のことは自分で決められるものだ。決められない人間が「マクロ」ではなく、
決められるがその決断に「自信」のない「謙虚」な人間が「マクロ」なのだ。非常に良心的な、
「これでいいんだろうか?」と思っている人間の、その弱さに付け込むような狡猾な策を私は否定したい。
「こうしたらこうなる」と、まるで「呪文」のような、それが救いのあるものであるならまだしも
「こうしないと地獄に落ちる」的な「脅し」の入った、怪しげな宗教団体がおかしなグッズを
売り付ける手法に似た感触を私は「親学」には感じている。
日本の親は真面目な人間が大多数だ。学校にこうしろと言われたら大抵の親は従う。
国にこうしろ、と言われればできる限り努力もする。子供を持つ選択をした人間の大部分が
子供をかわいいと思っている。もちろん一定数例外はいる。しかしそれはパーセンテージにしたらかなり低いはずだ。
世の中はそういうおかしな人達を強調して、ただでさえ自信のない大勢の人間を刺激する。
今していることがひょっとして「虐待」「間違った子育て」ではないのか、と。
子育ての決断に自信を持つ親は確かに「ミクロ」だ、といってその自信が正しいとは限らない。
その程度の認識をもって私は「親学」を受け止めてみるが、
やはり納得できないところが多々ある。
これは「理想的な環境」にある「ミクロ」の人間が作ったものだからだ。
経済的にも時間的にも余裕のある、親の親や兄弟やまわりに沢山の恵まれた人間が大勢いて、
手がいくらでも足りている幸せな環境でなら、「親学」の実践は充分可能だろう。
不思議なことに理想的に恵まれた人間と言うのは自分が「ミクロ」であることをなかなか認めようとしない。
これは自分のしている事を過小評価されたくないせいなのか、謙虚なのか、私にはわからないが、
「理想的な子育て」ができるからと言って必ずしも実践者が「理想的な人間」ではない。
私はまた「理想」に対しても胡散臭さを感じる、その「理想」は果たして「誰」のものなのか。
「親学」に「御墨付き」をもらったからと言ってもそれは子供にとって本当に意味のあるものなのか。
「ミクロ」や「マクロ」の意味をずらして考えてみるのだけれどやはりどのようなとらえ方をしても
「親学」には納得できない。
「ミクロ」に焦点をあて、次に「マクロ」を移す、そういう印象操作をするんじゃないか、
はじめからそれほどでもない家庭や学校の「崩壊」を見せつけたあと、「親学」の「導入」で
「こんなに良くなりました!」と元々まともだった多数を「増えた」ように思わせる。
「親学」の成り行きは今やっている憲法解釈の会議に似ていくと思う。
はじめから「憲法解釈はおかしい」と言っている人間ばかりを集めれば大多数が「おかしい」に一致するのは
わかりきっていることだ。無数にいるはじめから真面目な親が四苦八苦して「親学」に沿うように努力するのだから
「親学」の成功も目に見えている。その小狡いやり方が私は嫌だ。
そうは言っても既に「国会」が壮大な「やらせタウンミーティング」に見えているのだから、
今さら「親学」にがたがた言っても仕方がないのかもね。
押し付けがましさがなく、育児に不安を持つ親を励ましそれなりに努力している今のやり方を肯定する
「アドバイス」を与えるのならいいのだけれど、
そもそも親「学」と名付ける時点で私は「見下し目線」を感じて不快だ。
本当にそれを必要とする人間が「マクロ」ならば「ミクロ」かもしれない私は沈黙しよう。
私は「ミクロ」なんだろうか?
ありふれたひとりの母親に過ぎないとまわりの多数の母親達をみて思うのだけれど。