思ったこと。

なんだか、全てをわかったような、でもなんにもわかっていないエントリを続けて読んだせいで気分が悪かった。
でも、大いに納得できる「現役母」日記も読ませてもらって、すっきり。ネットの良さは、こういうところだね。
出来ることを出来るだけがんばってみよう、と試行錯誤しながら私たち母親は、「育児」をやって、
それは「育児」に真剣に向かい合っていない人間にとっては、時に「痛い」行為に「見え」たりして、
例えば子どもの「アトピー」に悩む母親が、たまたま親切にしてくれた先輩母に、特に営利目的ではなく「マクロビ」を勧められてはまったり、
「子どもの教育は母親の責任」を信じてしまった若い母親が早期教育に走ったり、
それも少しづつ育児になれて、落ち着いてくれば「これって、無駄かも」と自分から気がついたり、
「無駄」と気がつくまでの「時間」が本当に「無駄」かどうか、私は「無駄」には思わない、一生懸命やったんだから、それでいいじゃない、と。
私自身は「エコロ」だの「早期教育」だの、「面倒くさそう」なものはあわないと思ったんでやらなかったけど、長い間、「母乳信仰」には悩まされた。
母乳があまりでない質だったので、6ヶ月を過ぎた頃から子どもが熱を出す度、母乳を飲ませて育てなかったせいではないか、
そもそも、母乳が出ないのは、それまでに自分では気がつかずにでたらめの生活をしてきたせいじゃないか(食べ物の好き嫌いはないが)
「母乳にしなかったのは、胸のかたちが変わるのがいやだからなんでしょう」みたいな、そんなスバラシイ胸を持ったことは一度としてないのに、
勘ぐられたりして、ずっと悩み続けて、今でも、子どもに何かあると、ふと気になることもある。
そんな風に、みんな「バカ」なんだよ、「不安」を抱えて、それでも「親」となった限りは、子どものために出来るだけまっすぐ立っていたいと願う。
出来る限りのことはしたいと、無駄なことでもとりあえず「努力」してみる、でもその「努力」をあっさり「母親の自己実現」にすり替えられたりして、
つまり、そういうことを書く人は「子どもの出来」=「母親の出来」と考えてるってことだよね。
「自分の「出来の良さ」を証明しようと育児に躍起になってる」と、そう考えるあなた自身の「出来」は相当悪いよね、それは「親」のせい?
なんて、いちいち「妄言」なんかに引っかかることもないんだけど、
母親たちのけなげな「努力」をそういう読み解き方しかできない人間が、心理学なり精神医学を修めているらしいことにはぞっとさせられる。
本当に、子どもの「出来」を自分の「成果」や「自己実現」のように考えている「母親」っているのかな?
絵に描いたような「教育ママ」や「スーパーウーマン」に私は一度もあったことがない。
そう「見える」人は確かにいるけれど、やはり心の底からお子さんの幸せを願っていて、どんなことでもしようと努力を惜しまれなくて、
行きすぎるところがあっても、お子さんへの愛情を疑うものではない、少なくとも、私はその方々のお子さんへの愛情を信じている。
お子さんたちもそれを信じているからこそ、それに答えられるかどうか、時に自分の力量に不安を覚えるだろうと思う。
感情の行き違いから、稀に悲劇も起こるんだろう。
「女に「教養」を持たせると、目先の「自己実現」にばかり走って、ろくでもない」のような意見は、
「女」に対してだけではなく、「教養」に対しても失礼ではないのかな。
うまくは言えないけど、たくさん「失敗」して、「子育て」していきましょう、つまずきながら「親」をやっていきましょう、
私は、たくさんの様々な「理想」を持つ母親に出会って、すてきな先輩に励まされながら、慰められながら、なんとか、今やっているから。
ネットでも、すてきな「お母さん」たちに出会うことがあるから、自分で「出来る」と思うことをやはり「がんばり」ましょう。
ネットで、心に残った言葉は
「子供にとっての日差しとは「笑顔」だろうな」
「その子供にとっての適度な笑顔の与え方って、その子の母親である自分にしか分からないだろうな」
私もそう思う。そう思うことが「自己満足」のタグを貼り付けられるとしても。