教育(?)雑談。

西原理恵子の「毎日かあさん」7巻に「まかせるな」のタイトルで興味深い1編がある。
子どもの野球クラブで「ボランティア」の兄ちゃんが「すべてを子どもの自主性に任せる!」とみんなの前で言い切って
それを実行すると子どもたちの収拾がつかなくなって、「お世話係」かあちゃんたちが子どもたちにブチキレながらあれこれ指示を出す、
その後かあちゃんたちは「子どもの自主性とか想像力」「無限の可能性とか「わたしたちに出来るのはそれを引き出すこと」とか」
「そんなものはないっ!」とあとで荒れる、と、この漫画でははっきりと書いてないけど、
青臭い「理論」ばっかりいってる馬鹿たれが、現場をどれだけ荒らすかを見事に描いて、読んで泣けた。
教育現場にはこの手の電波妄想系がよく現れるんだな、特に小学校には。
役員をしていたとき、何度「トンデモ理論系教育講演会」に引っぱり出されたか。(涙)
フルタイムで仕事している人がわざわざ貴重な年休まで取って聞くような内容じゃないよ、みたいな「ショーもない」のが平気で入り込んでくる、
「教育現場」って「理想論」をとなえる人にとっては「実験場」なんだろうなあ、と達観した。
自分の「理想論」を「実践」するため「だけ」に子どもたちは存在するのよね、、
聞けば腹がたつので、下の子のときはこの手の講演会は避けまくったりして、親も知恵がつきますわ。
どういう講演か何も知らずに参加して「この人、お子さんいらっしゃるの?」とひそひそ親の間でかわされて、「いない」「ああ、やっぱり」みたいな、
なんでこういう人の「教育論」を私ら聞かなアカンの?は禁句なのよね、、、
私が役員をしていたとき、この手の人をよく引っ張り込んだのは、子どもが長く不登校、だけど親は学校に皆勤賞みたいな人だったな。
「私はほかの親とは考え方が違う!」を常に確認したい人だった。
なんで子どもが不登校なのをどうにも出来ない親が入れ込む「教育論者」をわたしたちが相手にしないといけないのか、
しかも、その人が入れ込む「教育者」は何故か常に「子ども」がいない。「不妊で子どもが出来なかった」って人でもなさそうだったりして、
彼女がそういうのに「はまる」のは子どもが不登校だからか、それともそういうのにはまりやすいから、子どもが不登校なのか、この答えは今でもわからない。
わたしたち有象無象の保護者たちは「あそこのお子さんが学校に来るようになったら、この教育論も正しいってことにしよう」と
結局、わたしの知る限り、少なくとも義務教育の間は、そこのお子さんは学校には来なかった。
「実践」せずに「理想」をとなえる人の「人権」や「教育」ってろくでもないんだよね。
現実に親をやるのと、妄想の中で自分が親ならばいかに立派な素晴らしい子どもを育てられるか、とナルシシズムを発揮するのとでは
雲泥の差があるのがわからない人がこの世には存在する。
「理想の教育」を頭の中で作り上げることで快感を覚える人たちの話を聞いて、子育ての足しになったことは、まだないなあ。
「話」が「うまい」ひとは多いのだけどね。
時々、ヒューマニズムの皮をかぶったセンチメンタリズムを廃することが出来れば、人間社会は格段の進歩があるだろうと考えたりして、
教育や人権にやたらと関わりたがる人間のうちにあるナルシシズムヒューマニズムの皮をかぶったセンチメンタリズムをさらにまといつけていて、
だからやっかいというか、面倒というか、そういうものと関わらずにすめば、親をやる負担も多少ましになるような、
丸山眞男が言った「いやいやながら参加する活動」を思い出すなあ。
それが最終的には「正しい」とよく思うわ、、