教育「論」、、、

ホットエントリーで見かけた「日本の子どもの目は死んでいる!」記事、
「もうおまえは死んでいる!」って、大昔の漫画の有名なセリフを思い出してしまったな、
「死んでなきゃ、困る」ってところなんだよ、自分の「教育論」を「正しい」と受けとめさせるためには。
ブクマにも書いたんだけど、先進国教育の一番困った点は、「教育論」が「金」になること、
どんな「教育論」でもそれなりに受け入れられてしまう、まあ、たいていの「論」はそれなりにもっともらしく書かれるものだから。
先進国の子どもの目が死んでいるとしたら(そんなことはないんだが)、それは「親」の目が死んでいる、もっと言えば「大人」の目が死んでいるってことで、
何故、そういうことになるかと言えば、まず、子どもを自由意思で持たない人間が何故か「教育」に関わりたがる、
自分の体で子どもを作って育てるのはイヤだけれど、それをしないかわりに「正義の味方」として他人の子どもには口をだしたがる、
「自分に子どもはいないけれど、自分はこんなに「子ども」の将来を憂いている!」って、これは子供を持たないことへの「免罪符」になるのだよね、
結局「子ども」という「言葉」が無敵の「楯」になってしまう、そんなに子どものことが好きならば自分で子どもを作ればいいんだけど、
それは「こんなひどい世界で子どもを育てるのはカワイソウ!」という思考回路で「やらない」、
その根底にある「子どもを育てるなんか面倒」のココロから逃れるためには、人間はなんでもやるんだよなあ、
「自分は完全な正義の味方である」とやるためには子どもなんか作ってられない、って人を、私はネットでも実生活でも山のように見てきて、
いやー、「親をやる」ってのはこういう人間たちにも「気に入られるように振る舞う」ことが重要なんだな、と痛感した。
ひとたび「親」になったとたん、全然見ず知らずの他人にまでその人間が気に入る「親」として振る舞わなければならない、
そりゃ「親」の目も死ぬわ、そしてそういう「親」を見る子どもを作ることの出来る年齢の「大人」の目も死ぬよな、
ここまで「窮屈」な思いをしなければいけないのか、と。
朝日新聞で「教育という名の虐待」という記事があって「学会が警鐘」とあったので何が書いてあるのか読むと、
子どもに勉強させるために「母親がナイフを突きつけた」「掃除機で叩いた」と、
これは「教育学会」で発表する「症例」というよりは「精神病学会」で取り上げるべき「症例」だろう、
教育のプロじゃない「親」の目から見ても「異常行動」だもの、シェルターの人は精神病院と連携がとれないものかな、
しかし、こんな異常者を「教育熱心な親」の「代表」であるかのごとく書く朝日新聞編集委員「大久保真紀」氏とは、どういう人物なのか、
時々、朝日新聞には不可思議な記事が載って、その記事を書いている記者がどういう人なのか不思議に思うことがよくあったりして、
でも、こういうことを書く方が「売れる」んだろう、「極端」な事例の方が「面白い」、
もっとくわしく書くべきは「子育てに悩む親の状況」のはずなんだが、記事の半分は「異常な親の極端な虐待」にさかれている。
私が実際に自分の子どもたちの学校で目撃した「問題をかかえる生徒に踏み込まず・・教師の放置」に関しては具体例がほとんど書かれていない、
いやはや、ホンマ、結局、新聞を読んでわかったつもりになる人とは、自分には子どもがいない、そのことに安心したい人間が多いんだろうね、
「作らなくてよかった!」って「もてない」年齢になると、そう思いたいものなんだろう。
子どもの目はどこの国でも残念ながら死んでいないんだよな、だからやはり子どもは育つし、困難な世界でも子どもを作りたい人はつくる、
生まれてきた子どもや子供をこれから産もうとする人のために何が役に立つのか、子供を持っている立場からもっと考えていきたい。
もう「持ってない」人の「正義」に振り回されるのは、たくさんだ。