ほんの感想。

このあいだ本田由紀さんの「多元化する「能力」と日本社会ーハイパーメリトクラシー化の中で」を読んで、
色々考えさせられた。時間がなくてゆっくりと資料に目を通すことが出来ず図書館に返してしまったので、
また借りてきてメモっておこう。
印象に残ったことの一つに「努力する能力もまた獲得すべき「スキル」ではないか」で、これはあっと思った。
「私にできてあなたに何故か出来ないこと」「あなたにできて私にはやっぱり出来ないこと」を時々考えていて、
これって「努力」の方向性が違ってるって考えたらひょっとしたらわかりやすいのかな、とかって
(違ってたらすいません、、)「努力する力」もまた「獲得すべき「能力」」と思えば色々 考えられることも多い。
この形成がいつどのようにしてできるか、或いは作られるべきか、よく理解できなかったんで、
また借りてきた時、確かめておこう。
それから「スーパーマザー幻想」とでも言うべき母親への「負担」、賞をもらった時の確か京大の先生が
「幼児教育が大切だと言うことにフェミニストがどう反応するか」なんて評があったけど、
その読み取り能力のなさ、恥ずかしくないか?とマジで思った。全然、そんな話しじゃないじゃん、
読んでないんじゃないか?誰だっけ、その馬鹿、アンチフェミの人ってどうしてなんでもかんでも
フェミニズム」と結び付けるんだろう、妄想炸裂じゃないか、やれやれ、、、
どちらかで怒っていらっしゃる方もお見かけしたが、全くそのとおり、京大の先生は間違ってる。
あまりにも母親への負担が大きすぎることを本田由紀さんは取り上げられていて、そのことをどうするべきか、
制度の見直しをそうしたことを踏まえてやっていくべきだの意見なのになあ。(うーん、私もちょっと違ってる?)
確かに幼児期に習得することが望ましい「能力」があって、それを与えられるのは今のところ
保育に関わることが多い「母親」の責任かもしれないが、なんで「母親」ばっかりなんだ?「父親」は?
私は子供を産んだ後、母乳育児に苦労して、それでなくてもぼろぼろな体なのに、おっぱいが父親から出たら
どれだけ助かるだろう、と思ったもんだ。乳腺炎にはなるしなあ、、トホホ。
それはともかくも本田由紀さんは母親だけに負担を強いることへの弊害にもふれられていたように思うので、
もっとこの考え方が一般的であればいいのにね。
こんなことを言うとものすごい自己弁護だと思うけどあえて言わせてもらえれば、きっと仕事をしてたら
今の半分も私は家事も育児も出来てない。仕事だって自分で満足するほど出来ないだろうし、
それでパニックおこしてると思うんで、私は仕事をしながら育児や家事をこなす女性を心から尊敬している。
ちゃんとやってるもん、私は出来ないから、本当にすごいと思う。
ホントは出来ないといけないんだよなーといつも思う。
私はいまだに「働かされてるなんてカワイソー」なんて言うような「専業主婦」に出会ったことがないんで
(もっとも、専業主婦同士でそんな話しはしないしね)もしいたとしても、きっと自分が出来てないから
ひがんでるだけかもしれないよ、私だったら多分そうだ。「スーパーウーマン症候群」だっけ?
やれる人もいるけどやれない人の方が多いんだって、もっとちゃんと言って欲しいなあ。
あとね、自分でなんでも「やってるつもり」の人だっているよ、御実家の「専業主婦」の「母親」の「サポート」で。
そういうのは無視して、「私は出来たのに貴女達と来たら、、」と言いたがる女性がいるのがどうもなあ、、、
最近考えるのはまず「出来ない事」を認めて、それから「出来ること」を探すこと、全部は無理だけど、
これとこれは出来るから、のやり方。こういうのを目指してくれたらいいのになあ、
それなのに政府はなんだかあれやれ、これやれ、って「徳育」だ「朝御飯」だって、まったくもー!
本田由紀さんのこの本の最初の方で教育方法の情報の氾濫にもふれられていて、確かに教育手法の
みのもんたの健康法」化には笑えるものがある。毎日のように「これがいい」「あれがいい」って
今は子供を「叱れ!」がブームらしい、私が上の子を産んだ時は「ほめて育てろ」だったけどね。
私はどっちもやってて、どっちもやってません。育児の「成功」なんてない、と思ってるし。
子供が「生まれてきてよかった」と思えたら、嬉しいけど、それは私が育ててきたせいじゃない、
子供が生きてきた証として得たものだと思う。親が子供に出来ることってものすごく少ないと思ってるんだけど、
どうなのかな?でも「努力」する能力は持ってくれたらいいなあ、、、自信ないな。
変な「感想」になったけど、いい本でした。お勧めです