ぶつぶつ、、

中学の卒業式が終わりました。明日は小学校です。でも子供会のあれこれはまだ終わらないのです、トホホ。
昨日ついごちゃごちゃといらないことを書いたところでは、やはりコメント欄の方の意見に
納得はされなかったようで、残念です。お子さんの意見を必ず聞いて欲しいと思うのは、
よけいなお節介なのかもしれません。でも試験を受けるのは、そして評価されるのはあくまでお子さんなのです、
自分の子供を「数」や「モノ」扱いされるのは、特に「国家」の「強権」で振り回されるかもしれないのは、
本当に嫌です。でも生きている限り、人間は「数」であることからは逃れられないのです。
民主主義とは「数」から成り立っているのです、胡散臭い民主主義ではありますが、
私は民主主義の手法は大切なものだと思っています。
不登校」を呼び掛けるのも「数」を集めているのではないですか?
その「数」の一部になることもまた一つの選択肢で私は悪いことではないと思っています。
ですが、それは試験を受けるお子さんがその「数」になることを納得して自分で「選んだ」場合だけです。
もしどうするか迷うお子さんを不登校にするように「説得」するとしたら親が子供に「強権」を
ふるうことなのです。私は国家がそれをするのと同じくらい罪深いことに思うのです。
お子さんの御意見が見えないのです、少なくとも書かれていることからは。私はそのことが心配なのです。
子供には子供の世界があり、子供の尺度があるのです、そのことを侮ってはいけません。
どこかで「みんなが試験をしたのに自分は行かなかった、、」と後ろめたさを持つようでは
お子さんのためにはならないように思うのです。自分で選んで拒否した、と思えるのなら問題はないのですが。
私は「やってみなければ文句は言えない」、試験に対してはそう考えています。
そのデータがそのように出されてどのように活用されるのか、受けた子供と受けさせた親共々、
よく見ておこうと思うのです。おそらくはものすごく下らない使われ方をするだろうと
今から暗い予測をしています。でもそのことに反論するのは受けた、または受けさせた側の「権利」です。
このことだけは、国家であっても否定できるはずはありません。
はじめから受けていないのにどこが悪かったか指摘できるでしょうか?
その「権利」を放棄するのは本当に正しい手段でしょうか?一度はじまってしまったことを終わらせる、
或いはよい方向へと導く、それは参加していなければ出来ることではありません。
私は「義務」を果たしますが、また「権利」も大いに主張するつもりなのです。「数」と数えられても
その「数」は個々に物言うものだと国家に思い知らせてやることも考えます。利用されるフリをして利用します、
「数」にされた代償は必ず求めます。これこそ、私が子供に教えたいことなのです。
やる限りはその代償を求める、その「義務」の「対価」を国家から引き出す、または引き出す努力をする、
数とされた中でどのような結果が提示され、それをどう読むか、子供と一緒に考えようと思います。
だから私は試験を否定はしません。一度決まったことにとりあえず従います。でも盲目なわけではありません。
目を見開いて国家が自分達に何をしようとするのかよく見ておきます。子供にもよく見せておきます。
試験はある意味楽しみでもあるのです。私はたとえ子供が低い評価をされても気にしないのです。
はじめから間違った答えだと知っていますので。
でも不登校手段も否定は決してしません。不登校手段も立派な手段です。でもお子さんと決めて欲しいのです。
そのことだけはネットの片隅からこっそり呟かせてください。ぶつぶつ、、、