恐ろしいほどの不快感。

丸山真男をひっぱたきたい」なんて言う文章がちょっと前に話題になって今回よく読ませてもらうブログで
内田樹先生までもが取り上げているのを見る。ふーん、「フェアネス」なあ、、
戦争ってそんなに「等しく」「不幸」だったかね。そりゃーアメリカの爆弾は等しく万民に落ちてきたものの
それでも皇居のど真ん中に落とされる事はなかったんで、はて、人の命は平等か、って疑問がわく。
私は元の文を読む気もないし、だから本当は何も言えないんだが、それでも無駄に持ち上げ過ぎてないか、
って言う気がする。このての考え方まで取り上げるのは「平等」なのか?
私は突然「右翼」に変身して「間違った平等信仰」なんて言いたくなった。
人の命は平等であるを大切にしたいと思っているから「戦争」なんて「言葉遊び」をする人間を激しく嫌悪している。
人が「等しく」死ぬ事態を招き寄せてそれが「平等」だとまで言うか、戦争では間違いなく人が死ぬ。
そしてそれが「チャンス」と言う、自分が丸山真男クラスの人間をひっぱたける、と考える、
それができるのは少なくとも軍曹クラスにならなければならないはずだが今、
そういう定職にもつけてない人間がどうしてそんな事ができる身分にまで上がれるか、
戦争で混乱してそうした事態に発展するまでに、自分のような人間はまず遠方にとばされたあげくに
餓死が妥当なセン、と思い付けないから、とりあえず戦地にさえなっていないこの日本で、
不満足な状態に置かれているのだろう。
「戦争」を「いじめ」に置き換えてみたりする内田先生のそのやり方をわたしははっきり嫌いだと言う。
「戦争」と「いじめ」は違いますよ、そんなぼかしをいれるのはやめてください。
「邪悪な存在に同化する」ことができる子供はそう多くはいません。
先生の設定する「子供の世界」とは一体どこの話なんでしょう。子供の世界にも「質」が厳然と存在します。
底辺の公立校から選ばれたご家庭の子弟が集うトップエリート校まで、ただ「同じ年である」と言う事でくくられて
「中学生」「高校生」と呼ばれていますが、たしかにもう生まれ落ちた点で大きな差がついているのです。
そして私は申し訳ないと思いますがその差が戦争程度でぶっ壊れるなんてとても思いません。
今の総理大臣のお祖父様はたしか戦犯容疑で収監された人です。
それでも、成蹊という伝統ある私学校に小学校から入学し、奥様は一流企業の社長令嬢でいらっしゃいます。
戦争は本当に「平等」になにものかをもたらしたんでしょうか?
「戦争」を「チャンス」だなどと、たとえ「レトリック」に過ぎないといったところで私は許しません。
その手法をわざわざ取り上げるメディアのやり方だって許しがたい。
「戦争」が「手段」として認識されていくように思えて仕方がない。それは確実に人の意識に浸透するのです。
子供のやり方が社会を移す鏡である事に反意はありませんがそれでも邪悪化する子供の方が多いと言えるか、
と私は問います。多いんでしょうか?本当に?いいえ、そんな事はないんです。
社会の底辺だとされる人たちの多くが戦争を待望しているなんて考えが間違いであるように、
子供達全てが邪悪化し、意地悪化しているなんてありえません。邪悪化しそうで出来ない子供がほとんどです、
だから子供達は苦しむんです、そういう目で「見られる」「自分達」という存在に、
また、邪悪化を恐れながらそうしてしまいそうな自分自身にもおびえるんです。
それでも底辺校の子供達でさえ半数くらいは邪悪化せずにじっと耐えています。
そんな子供に目をむけた人がいるんでしょうか、目立たない、恐らくはただ黙って世間の目を受け入れる、
けれど「邪悪化」或いは「意地悪化」しない子供が多く存在しています。
日の丸に向かって敬礼し、国歌斉唱しろといわれたら黙って従う子供達が、心ではおかしいと思いながらも
それを声に出来ない、といってその鬱屈を自分に似た存在に当り散らす事もしない、ただ静かに耐える、
そうやって大人になっていくんです。
「戦争になればチャンスがある」なんて言い出す人間が何故幸せになれないのか、
それはそんな発想を間違っていると考える事が出来ないからこそ、幸せにはなれないんです。
そこまで追い詰められている?いいえそんな事はありませんよ、
少なくとも彼のブログを拝見した限り私にはそんな悲痛さは感じませんでした。
むしろ自分の手法が認められている、自分の「スタイル」で人を集められる事に悦に入る、
くだらない人間の姿が透けて見えました。何故彼のような人間のやり方を取り上げるんでしょうね、
「戦争」の言葉を「タブー」とする事まで「タブー」なのですか、そこまで日本は成熟しましたか?
今回読ませて頂いた内田先生の文章には歯切れのよさがありませんでした。
何故なのか、私も少し考えたいと思います。
「戦争」という「言葉」を受け入れたら「戦争」も「手段」と思うようになる、私はそれを心から恐れている。