「する」と「しない」と「出来る」と「出来ない」

私が「する」行為だけが肯定的にとらえられるのが一般的なのはおかしいんじゃないかと書くのは
昨今の「戦争をする権利」が「普通」の「国家」観であるかのようにそそのかす人間が
ネット上ではことのほか多いように思えるからでもある。それに子供を持つこと、持たないことを関連づけるのは、
人間の本能に挑発的かもしれないと思いつつも、私は少子化がそれほど悪いことと思っていないので書いている。
ただ、ふと小梨さんの子蟻さんへの反応を見て、私も子蟻さん側の人間なので
子供を「もたないこと」の捉え方について考え直してみた。
私のような「子蟻」が考える「小梨」であることとは、なんらかの目的があってもう子供を持つ必要はない、
と考えるのではないか、が根底にある気がする。子供を持たない、と決断して別のステップへと進む、
それはそれでいい人生だ、と言ってあげたいわけで、決して持たない選択をした方を非難する気はない。
子供を持つ以上に素晴らしいことがこの世にあるのならそれはそれで素敵なことだ、
がんばって、その世界に突き進んで頂きたい、と、つい考えがちなのが「はったらッきありさん」の
せこい考え方ではないか。小梨さんは小梨さんで、別に何がしたいと言うわけではないけれど
とにかく子供は持ちたくない、そういう自分を言わば「許して欲しい」と訴えているわけで、
ここらあたりにお互い誤解してしまうところがあるように思う。
小梨さんの「あるがままに受け入れて」は子供を持つ、持たないにかかわりなく難しいことなんで、
それが30代の既婚者にわかってないはずはない、とまた、ちまちました考え方しかしない
私は思ってしまうわけで、だから悩まれるのもそれなりの「パフォーマンス」じゃないか、と感じてもいる。
子供を持つ、持たない、をする、しない、でとらえるのが間違っているのかもしれない。
子供を持つことが「できる」「出来ない」で考える方がいいのかもしれない。
つまり、「育てられる」「育てられない」と考えて、小梨さんにとって、子供を産んだ後、
その子供の面倒を自分が見られるかどうか、が精神的にもっとも大きいような気がする。
私はこの考え方がそれほど嫌いではない。何故なら、彼女はそれなりに責任感を感じることのできる人間だからだ。
子供を産んだ以上、責任を持つべきだ、の考え方を持っている人間ばかりが子供を産んでいるか、
と言うと必ずしもそうではないことを子供を持って色んな親に関わってきた私は知っている。
私自身でもどこまで子供に責任感を持っているか、或いは持ち過ぎているか、わかってないところがある。
多分大抵の親はそうじゃないだろうか。もっとも「自分は完璧な責任感を持って理想の育児を実践している!」
なんてハイテンションな人間がそばに来たら、育児中の皆さん、一斉にお逃げください、
こういう親子に関わることは大変危険です、ほぼ間違いなく電波な「とんでも」です。
(あ、真面目に書くつもりが、あきた)
私はこんなにも子供を愛し、こんなにも理想的に子供に関わっている、を他人にどうしても
見せびらかさずにいられない人間の責任感なるものが果たして子供のためになっているかどうか、
まだ沢山の例を知っているわけではないので確定はさけるが、過度な責任感は無責任と同義語で、
さほどよい結果になっていない。だからそうした人間が子供を迷いもなく子供を持つことにくらべれば、
私は小梨さんのように迷う人間がいつかその迷いを抜けて、もしも子供を持つ方に向かっても
よい結果になるんじゃないか、また子供を持たないことに迷うのをやめたにしても、それなりに
正しい選択をしたと言えるんじゃないか、と思う。「育てられないかもしれない」と感じることは悪いことじゃない。
そしてその結果産まない選択をしても誰も責めたりしない、と私は言ってあげたい気がする。
「出来ない」ことを責めるべきじゃない。
「する」と「しない」と「出来る」と「出来ない」、うーん、あんまりうまくまとめられないなあ、、
これは私が「子蟻」で、やはりどこかで子供を持てる(かもしれない)のに、持ちたくない、
が理解できないからかもしれないなあ。「する」権利が「普通」、ってのには抵抗感があるのにな。
憲法改正」に向かう国会、「普通」の国になるために戦争「する」権利が「正しい」と、
本当にそれでいいんだろうか。私は違うと思う。もっと時間をかけるべきじゃないのか。