親であるという選択。

渋谷の兄妹殺人事件の両親の手記を読んで、「ソフィーの選択」を思い出した。
映画すら見てないのだけれどたしかホロコーストで生き残るために自分の子供のどちらかを
選ばなければいけなかったのだと聞いている。これほど残酷な選択をどうしてもしなければいけない時、
実際二人子供を持つ私はどうするだろう。選びたくない、けれど選べばどちらかは助かるのかもしれない、
どちらであれ一人でも生かしてやる方がよいのではないか、と迷うに違いない。
渋谷の被害者と加害者を同時に子供に持つ両親は死んでしまった子供より、今生きている子供を救う方を選んだ。
極めて現実的で、妥当だと私は思う。死んでしまったものはもう生き返らない、
それより少しでも罪を軽くするように生きている加害者の子供をかばう。
死んだ子にどれ程愛を語りかけてもそれは決して伝わらない。だから死んだ子供への思いは
自分達の心の中だけのものだ、それを他人に理解されようとは思わない、理解してもらえるはずもないだろう。
「あの時もっとこうしてやれば」「こうしたらああはならなかった、、」誰かに理解してもらったところで、
なんになると言うんだろう。深い絶望を私は見ている。もちろんこれは単なる私の感傷で、
本当に末っ子の一人娘を疎んじていて、両親を気づかった息子が手におえない妹をせっかんして
それがエスカレートしたと思っているのかもしれない。でも私は娘への思いは封印して
ただのこされた息子のためだけに今は必死になっていると考えたい。親として、私もそうするかもしれないから。
生きている方が大事なのだ。できる限り拘束が短く済むように手をつくし、
多分完全に狂ってしまっているだろう子供を静かにどこかにかくまいたい、
そしてもう一人、妹と弟を同時に失うというあまりに過酷な境遇に陥った子供を救いたい、
死んだ子を非難するような手記を出した事で世間に非難されても、
それが今できる事全てだと、判断したんじゃないだろうか。
ソフィーの選択」ではどちらを選んでそのあと子供はどうなったのか?
ソフィーは最後に自殺をするとだけしか私は知らない。二人の子供のどちらを選んだとしても、
正しくて、間違っている、そして親は選んだ自分を決して許さない。私が二人の子供のどちらを選ぶのか、
私はどちらも選ばない、どちらも選べない、きっとそんな一番間違った選択をする。
どちらかを救うチャンスをどちらからも奪うのだから道連れ心中と同じだ。親として、最低の行為だ。
一人の子供をかばうために死んでしまった子供の名誉を犠牲にする、これももちろん正しい事ではない。
でもそれを選ばずにはいられなかった、とあの両親を私はそう理解している。
親になるというのはそういう間違った選択もしてしまうリスクを負うことだ。
手記を自発的にしろ出さざるを得なかったあの両親に、それをつい読む私は申し訳ないと思う。
あちこちで話題になっている「妻との快楽のための性行為は嫌だけど子供は欲しい」という男性の記事について、
相談する行為や、夫婦関係より、私はこの人が親になる事をどのように捉えているのか、そこが一番不可解だ。