子供を育てるという事。(その1)

大昔、「人は自分の持っているものしか他人に与えられない」と読んで、
幼い私は「これは泥棒したものを人にあげてはいけない」と言う事かな、と思ったのだが、
大人になって、親になって、この言葉を改めて思い出している。
親は子供にそれまでの人生で得てきたものしか与える事は出来ない。父親であれ母親であれ、
個人の経験とはそれほど多いものではない。両祖父母や伯父伯母、そういう人間が周りにいたとしても
血縁者の価値観は似たものだ。私はこうした「個人」の教育の限界を補うものが「公」の教育だと思っている。
公立校で様々な環境にいる子供達を見て、もまれて、色んな先生に出会って、刺激を受けて、考えて、悩んで、
親以外の人間に示された価値観の中でなにが一番自分に必要か選びとれるようにする、
それが「学校」と言うものの「役割」ではないだろうか。
あくまで「個人」が成長して行く段階で利用すべき「機関」が「学校教育」だと私はとらえている。
子供にとってなにが一番大切か、ある程度の年齢になった子供自身に選ばせる事が重要だと考えている。
私はその「時期」が小学校高学年ではない、と思うので私立ではなく公立中学に子供を通わせている。
子供を育てる事は本当に面白い。でも幼児期は何のかんのと戸惑う事が多く、無条件でこちらを受け入れ
こちらを要求することに、大人になったこちらはなかなかなれない。赤ん坊は可愛いばかりじゃないのは当たり前だ。
特に若い両親二人で育てる場合、寝不足でイライラしたり、母親が自分の身体もまだままならないのに
子供が熱を出したりしたら、どんなに欲しくて作った子供だとしてもうんざりしてしまうのは人間の自然な感情だ。
でもふと泣きながらこちらに手を差し伸べて来る子供の愛らしい仕種を見れば、腹を立てた自分を恥ずかしく思ったり
情けなく思うのも親として誰もがやってきた事だ。これから子供を育てる人たちにはあまり自分のネガティブな感情を
押し殺さないようにと私は助言する。ほんの少しだけど虐待する人の気持ちがわかる、と思ってしまうくらいが
決して虐待に走らない親の証拠だと感じて欲しい。子供に腹を立てたりつい手がでたりするのを責め過ぎないように、
こんなことして哀しい、と考える気持ちと共に子供と親も一緒に確実に成長しているのだから。
笑う子供は本当に可愛い、幼児期はそれだけで過していける。でも子育ての楽しみはそれだけではない。
今、学童期を経て思春期に移っている私の中学2年生の上の娘の話をすれば、私は彼女の感動を見て、
もう一度自分が過した子供時代を思い返す事ができる。
例えば彼女はアガサクリスティーを読んで、「エー、こんな話っていいの?」などと、新鮮に驚いている。
(「アクロイド殺し」とか「オリエント急行殺人事件」とか)
映画にしても私が若い頃に作られたいくつかの青春ものや、アニメや、私には「あー、そういうのもあったね」
でしかないけど子供にとっては初めて見る、素晴らしい「世界」だ。
子供の経験は親である私を楽しませ、喜ばせてくれる。
自分の子供を「育てる」という事で、これほどの見返りを子供から受けるとは、思いもよらなかったのが本音だ。
(続く)