雑読、雑言。(その1)

先日借りた本は「藤野真紀子のエレガンステキスト」「私のひとり暮し手帖(岸本葉子)」
「愚者の道(中村うさぎ)」「9条どうでしょう」「Mariko Stule(嶋田真理子)」「ためらいの倫理学内田樹)」
「ものがたりのある一皿(行正り香)「夕方、まだ明るいうちからビールをあけるしあわせ(藤井恵)」
婦人之友8月号」「快適生活研究(金井美恵子)」で、まえの四冊を読み終える。
「9条どうでしょう」で平川克美さんを初めて読んで、「マル金、マル貧(ビ)」って懐かしい言葉を見た。
私の大学生時代より微妙に前(多分)流行った言葉で、「勝ち組、負け組」の言葉の原型、のように
取り上げられていたのが面白かった。バブルの影響を改めて考えさせられた。
そのうち私のバブル時代の記憶も書いておきたいと思う。
中村うさぎさんの「愚者の道」は、うーん、暗い、重い、って感じ、ただ、読んでいて、こんなにも
自分を愛する事に罪悪感を持つ世代があったのだなあと、私は中村さんとは10年下の世代なので、
自分を愛するとか自分を大事にする、って事にそれほどためらいがない。(私だけか?)
「愛するためには理由が必要だ」「自分を愛するためには自分が素晴らしいものにならなくては」
「愛される自分になるために努力する」というところから「本当の自分探し」ってものがはじまってるのかな?
「愛せる自分を探す」って、真面目だよなあ。すみません、根拠もなくどうしようもない自分を愛していて、
そういう自分である事にほとんど後悔がありません。ものを考えなくなってるんでしょうかねえ、、
「自分」が愛するにたるほどのものか、っていうと、とてもそうじゃないしなあ、、でも誰も大事にしてくれないし、
せめて自分で自分くらいは好きでいてあげよう、なんて甘いか、いや、すんません、何の悩みもなく
自分を受け入れて。でも一つ前の世代がこうやって苦しんでくれてこそ今の自分達世代がある、
と私は小熊英二さんの「民主と愛国」を読んで以来、考えるようになった。
試行錯誤する思想に無駄はない、って事で。一つ前の世代に反発を覚えるから変わっていけるような、
と下の世代から責められたくないおばはんは思う、年をとるって狡いねえ、、
中村うさぎさんの夫婦生活(?)を読んで、「セックスは家に持ち込まない」なんて言葉を思い出した。
中村さんは明治時代の男性みたいかな、妾を外において妻に家を守らせる、でも昔の男は家でもセックスして
子供の面倒を押し付けたくせに、妻に外のセックスライフを許したって事はなかったから、
中村さんのやってる事の方がずっと上だな。中村さんはフェミニズムを嫌われるけど
むしろ御自分のやっている事をフェミニズムの典型みたいに思われたくない、って気持ちがあるのかも。
それではフェミニズムが報われまい、と考えられて、また、中村さんはワンアンドオンリーだから、
同じ事をして安定(?)できる人がいるとは思えないしなあ。「取扱い危険」の人だとつくづく思う。
そういや中村さんは「ブスはブスに、デブはデブに手厳しい」と書かれて、
おおそういえば私も同じ「馬鹿」仲間には相当手厳しいわ、と気がつく。(今さら、、)
フェミニズム、といえば「ためらいの倫理学」を拾い読んでいて内田先生について妄想をふくらませた。
それはまた明日。