中村うさぎさんの「あとがき」の話。

うさぎさんのお母様の耳が遠くなっているのにもかかわらず補聴器を拒否する、
「年をとったと「思われる」のが恥ずかしい」を読んで、こういうお年よりはいるなあ、
「専業主婦」が当たり前だった時代のおばさま方の中にこういうよくわからない羞恥心もたれる方がいたりして、
羞恥心と言うよりはそれが示す強烈な「女らしさ」を手放すことが出来ないのだよね、実に「昭和」な女性に思う。
幸か不幸か、私の実母も友達の母親たちもこのタイプではなく、結婚後に知り合った人にいるので、
ある程度恵まれていないと、この「女らしさ」とは無縁かも。階層特有の「型」かもしれない。
この面倒くさい「女らしさ」をお持ちの方はまだご存命で、こういうお母様をお持ちのそのコピーみたいな娘(とっくに中高年)もいるので、
女の世界は相変わらず混沌としているな。なくならないんじゃないのかな、この奇妙な「女らしさ」は。
「女らしさ」の「型」に入っていれば安心な人は多いのだろう。
「型どおり」で過ごしてきた人が年をとっていきなりその「型」から外れろといわれても、戸惑うんじゃないのかな。
「昭和の女らしさ」とは「年取ることを拒否する」だったりして。それがうさぎさんの「アンチエイジング」美容整形につながるか。
私がうさぎさんを好きなのは、こういう「女らしさ」やその延長にある「女の欲望」を徹底的に解体しようと常に挑んできたからで
病に倒れたあとでも愚直なまでに「自分」を綴り続けている。その誠実さにほろりとする。
昭和後半期、「バブル」と言う奇妙な時代に青春期を送った人間が刷り込まれた「欲しいものは何でも手に入れて当然!」がはたして正しかったかどうか、
「欲望のまま生きる」は不可能じゃないか、を私はうさぎさんに教えてもらった気がする。「欲望をすべてかなえる」は少なくとも「凡人」には無理だ。
うさぎさんのお母様の話に戻して、明らかに老人にしか見えない世代であるにもかかわらず、一番不自由な思いをするのが自分であるにもかかわらず、
「年寄りに見られるのが恥ずかしい」と考え、補聴器を拒否するとは、「女らしさ」は結局自分自身を見誤ることなのか、と思う。
私にそれを気がつかせたうさぎさんはやはりすごい。
ところで、うさぎさんは少々ボケてきたお母様の「記憶の書き換え」にも困っていて、これはうちの母もよくやる。
もう年寄りの「業病」で、自分の「そうあって欲しい」が「あったこと」となる。これをやられると子供世代のダメージは大きい。
私は自分の娘たちにこれをやってしまう日が怖いわ、それを「やっちまった」自覚すら、なくすのも知っているから。
また、うさぎさんが怒り狂っていた、お父様のマンション家賃発言も、よく考えれば仕方がないかもしれないと私は思う。
あてにならない子供を持つ親はどこか「非情」にならざるを得ず、
特にうさぎさんのお父様世代では「人様に迷惑をかけない、かけられない」が信条だろうから、お金の面で人に迷惑をかけられたくないはわかる気がする。
私にうさぎさんのあとがきが印象的なのは、親世代の老いと自分の衰えとも向き合っているからかもしれない。
読むと必ず何かを考えさせる、中村うさぎさんの「もの・書く」才能は病を得ても衰えていない。