「幸福論」への序走。

小倉千加子さんが「フェミニストがやってきた事より中村うさぎ西原理恵子とかがやってきた事の方がすごい」
みたいな事をたしか「ザ、フェミニスト」に書いてあって、はじめて
「エエッ、中村うさぎさんってそんなにすごいのかッ!」と、改めて中村うさぎさんを読み返してみたんだけど、
うう、やはり一生懸命読むとこの人ってすごい「モンスター」だ、と怖くなってしまった。
ブランドをつい買って失敗する気持ちとか、ああ、わかってるのにやめられない、みたいな気持ちはへらへら笑って
「ある、ある、ある」となるんだけどさすがにホスト遊び、美容整形となるとひいてしまう。
美容整形をしたくない、の即答は「痛いのは嫌」だけど、もしそれすらも超えられるほどの強いコンプレックスを
自分の顔なり体にもっているとしたら、と思うとあまりに哀しい。こんな顔、嫌だ、こんな体じゃなかったら、、、
と毎日考えるのは本当に悲惨だ。それが解消されるのならどれくらい痛くっても我慢が出来る、
なんて強いコンプレックス、もった事がない。結局何のかんの言って私は私が好きなのか?
そんな事考えても見なかった、なんて言えばあまりにも自信過剰だ。
でもなあ、私は容姿に関する限りあまり執着がないんだよ、これは本当の話。
中村うさぎさんのホストの話にしても、私は顔の綺麗な男に全く興味がない。むしろ嫌いと言っていい。
綺麗さに透けて見える自己陶酔にうんざりする、特に着るもの全てにこだわる男なんか最低の極みとまで
思ってしまう。私の場合、意味なく綺麗な両親をもって生まれたんで、そう思うようになってしまった。
ここで一言断っておかなければならないのは美男美女カップルの子供が必ずしも綺麗とか可愛いわけではない、
という事、生まれた子供3人はビミョーなパチモンばかりで、はて何故、私達はあのような両親をもって
生まれたのだろうか、と兄弟で言い合ったものだ。それは結構辛い事でもあるのだよ。
とにかく、父親を見てきた限り私は特に男の顔のいいのはろくでもない、と思う。見るのはいいんだよ、
でも実際つきあうのはしんどい、父親は悪い人ではないが、どちらかというと困ったチャンで、
今でもきれそうになる事が何度もある。私は容姿のいい人間を好きじゃない。
その容姿の良さを保つために費やされる労力がいかなるものか良く知ってるからだ。
「綺麗さ」なんてなくってよかった、は決して負け惜しみとか自己欺瞞とかじゃない。
そして中村うさぎさんに戻ればその、実は容姿コンプレックスより遥かに強い「探究心」が中村さんを
動かすんじゃないかと感じる。中村さんは自分で書いているほど自分の容姿を苦痛に思ってたと私は思わない、
ふと思いついた「何故、こうなんだろう」を突き詰めたんじゃないか、どこまでいけるのか、どこまでも知りたいと、
また行き着いた自分を眺めてみたいと、思ったんじゃないか。その強烈な冷静さが怖い。
軽い笑いの中に、効いた事もわからないくらい素早く効く「毒」みたいなものを、中村さんはもってるように思う。
「幸福論」の対談で真面目なお勉強少女な小倉さんをすっかり食ってしまう中村うさぎさんをもう笑って読めない。
ところで「ダヴィンチコード」をやっと読み終えた。面白くなかったです。
私はこんなシドニーシェルダン風のアメモノは苦手だ。ラングトンはしょっちゅう「疲れた微笑み」を浮かべている。
(まあ疲れもするだろうが)ト学会の本を続けて読んで、カソリック系の宗教知識があれば
あんまり楽しめないんじゃないか、と思った。そんなに書かれてる程、マグダラのマリア蔑視ってないしなあ。
確かにカソリックアングロサクソン系のピューリタンよりずっとざっとしてていい感じだと思う。
私はクリスチャンじゃないし神様と相性が悪いが立派な宗教者もいる事を学生時代に知って
ミッション系の大学に行くのも悪くないなと今でも思う。といって、役に立ってるのはこんな事だけかいっ!!
そーいや、中村先生の大学はプロテスタント系だっけ?その手の影響はやはり、、