どうでもいいんだけど。

読んでる人がいるかどうか定かではないが朝日新聞の土曜版「be」の青に「複職時代」と言うのがあって
時々読む。昨日は「仕事と子育ての間で」のタイトルで「ママ友付き合い」についての話が
ちらっとのってて、やれやれと思った。こういう話に出て来る「ママ友」には全く顔がない。
これはつまり見ている側が相手を人間と思ってないわけで、猿を見て猿だとしか人間が認識しないのと同じだ。
(猿でさえ「猿相」はあると猿の飼育係さんは言うけどね)
「『彼女達とは違う』と思うことが逆に『特権意識では』と思え、自分が嫌になったりするから、、」
とあるのもあざとくて私は嫌いだ。
かたまってどうでもいい話題に興じる「ママ友」を「見下されても仕方のない存在」と示唆していると思う。
そうですね、「特権意識」ですよ、これを認められれば今後もっと人間的に大きくなれるでしょう、
今回話題の彼女は。
私のママ友達はこれ見よがしにキャリアアップを見せつけなくても時期がきたら皆仕事へと巣立っていきました。
一瞬の話なんですよ、どうでもいいことを話すのは。そうやって相手を見ているわけです、
「信用できる」相手かどうか。時々話す相手と一体どういう話をすれば満足してもらえるというんだろうね、
いきなり家族の話題?やってきた仕事の内容?学歴?私は御近所の方に人生相談などしてもらいたくないし、
政治傾向についてなど話したくもない。当たり障りのない話題のどこがいけないんでしょうね、
まるっきり話さないのではあまりに失礼だし、かといって踏み込んだ話をする義理はなし、
「子供同士を遊ばせながらのママ同士の会話に全くついていけない」とは
つまり「社会性が全くない」ってことではないですかね。
こういう人は「仕事をしてない人間の話す内容なんか」ってなんにも聞いていないんですよ、
その話の端々に色んな心が見えて来るのに見ようとしてない、
こんな人間が仕事をする上で果たして「できる」のかどうか、私にはわかりませんが、
少なくとも人を見る目がかなり片寄っていることは間違いないでしょう。
私は子供に「あなたのために仕事を諦めた」なんて将来言うなんて思いつきもしませんしね。
私個人の「趣味」で専業主婦をやってるんであって、これは私の「選択」だ。
仕事をしてないからと言って日がなTVの話題など話すことはないし、(と言うか、TVほとんど見ません)
仕事に行ってても毎日つまらない話題で盛り上がってる仲間はやはりいたんじゃないですかね、
そういう人とも「私は違うから」って、その「違う」根拠は一体どこにあるのかいつも不思議だ。
「違う」ってことを見せびらかさずにはいられない自分に気がつけばいいのに、と思わずにはいられない。
いつでもこの手のタイプは泣きを見るのがわかっているから。
「私だけが正しいの」みたいな、その「正しさ」ってなんだろう。仲間を否定することでしか成り立たない、
単に、好き嫌いだけの話じゃないかな。馬鹿にしている「ママ友」からある日実は自分の方が
よほど馬鹿にされてるってことを必ず思い知らされるんだよなあ。
私は、もうそういう仲間がいる時期が過ぎたんで有り難いけど、やはり少し下の子供がまだ小さい
若い知り合いの集団を見ていると危なかしいのが必ず一人混じっててヒヤヒヤする。
ある日綺麗さっぱり集団から淘汰されている自分に気がつくことが必ず来るからね。
それでさばさばして元気に一人で生きていけそうならいいんだけど、私の知る限りそうなった例はほとんどない。
苦手な話題にも耳を貸し、相手の考えを探ったり探られたりしているうち思いもかけずいい友達を見つける
素晴らしい機会はいつでも山のようにあるのにこういう人はまずそれが出来ない。どうにかしてあげたいと
もう少し若い頃は思ったものの、無理でしたねえ、本当に人間は難しいもんです。
で、この手の方はどう言うわけか大抵宗教の世界にはいっていったりします、でもそこでもうまく行かないようで、
その先はどうなるんだろう、って今のところ私の人間ウオッチングの目玉になっている。
どんな相手であれ、必ず一人一人に顔はあるんですよ、その顔が見分けられない人間は自分自身に実は顔がない。
ありがちな「話」を、「人」を、この「田中和彦」と言う映画製作会社の役員さんはどんなつもりで書いたのか
わからないけれど、作る映画をあまり見たいとは思わない。
「みんな寝静まった深夜、ひとりパソコンに向かう」とは私だって時々しますしね。
映画の最後としてはあまりに「月並み」なシーンですな。