「昭和天皇の戦争責任」

てな検索で時々うちにくる人がいるので一応。
私にとっての昭和天皇とはもうよぼよぼした小さなおじいさんと言う印象しかなく、時々同じく小さな奥さんと
よろよろ歩いてる姿がTVにうつるのを見て学校で「昭和天皇の戦争責任!」なんて言葉を習うこともなかった私は
そこそこの年になってそんなことを聞いても「あんな年寄りつかまえて、、」と
何となく気の毒な気がするだけだった。
あと思い出すのは学生時代、崩御の際、京都の町が一斉に店を閉めてしまったこと。たまたま帰省していて
毎日下血のどうのと言ってた時期に、下宿先に帰ろうと河原町に出ると町が恐ろしく静かで
「なんだー!戒厳令でもしかれたのかー!!」と驚いた。亡くなったのを知って自分のおじいさんが死んだようで
少し哀しかった。私の世代は戦争でおじいさんが死んでいない人が多かったように思う。
だから「おじいさん像」を漠然と昭和天皇に重ねてた人はいたんじゃないのかな、それでなし崩し的に
昭和天皇に戦争責任はある!」なんて言えないで、今も引き続いている気がする。
が、やはり「昭和天皇に戦争責任はあった」と認識することが妥当だと私は思う。ただ、一国の君主たる天皇
戦争裁判で裁くことがどれほど負けた国の人間を打ち砕くか、それを連合国側も、また中国側も配慮したので、
東京裁判は評価すべきだと思う。昭和天皇の戦争責任を追求しなかったことで、最低限の敗戦国のプライドは
守ってくれたのだ。故に今頃「東京裁判は無効だ」なんて言い出す輩は「戦争」と言うものの
根本的ルールをはきちがえている、としかいいようがない。昭和天皇の責任まで問う裁判であれば、
それはそれでまた趣の違ったものになったのは当然だし、またそうすべきであったのかもしれないと
思わないでもない。実際、「なかったこと」になってしまっているので下らない「大東亜戦争美化」だとか、
A級戦犯靖国合祀当然論」とか、あるいは「富田メモ捏造論」とかが、持ち上がるので、
そうした情報の中で何が信頼に値するものか子供に選択させるためにも私は、今、亡くなられて
一つの歴史の「アイコン」と化した「昭和天皇」に「戦争責任はあった」と明言する本は必要だと思っている。
昭和天皇に親しみを持つ私でさえ、彼に責任があったことを否めない。ただ同情するべき点は多いし、
やはり裁判に引きずり出されることがなかったことを戦勝国に感謝せずにはいられない。幻想に過ぎなくとも
「プライド」の具現者がみじめな姿を国民に晒さずにすんだことはあの時の日本人にとって
必要なことだったと私は思っている。
靖国遊就館の展示がアメリカ側の意向を受けてあっさりかえられることに反発を覚えないでいる
東京裁判無効」論者を多く見かける。あの戦争を美化しながらアメリカは賛美する、その奇妙な
「なンちゃって右翼」たちを私は理解できないでいる。中国の人権がどうのこうのと上段に構えて書く一方で
自国の人権蹂躙は目をつぶる。倒壊する恐れのあるマンションが何年にもわたって何棟も建てられたり、
ガス機具の不備で何人も亡くなったり、この日本と言う狭い国でその奇妙な事象のパーセンテージを
だしてみれば中国や韓国とさほど変わらない気がしないでもない。他国を罵る権利など日本人にはない。
昭和天皇の戦争責任」を追求されなかった見返りが、そんなこともわからないでいる多くの国民達かと時々思う。
たとえ増税になろうとも軍備が増強されることを歓迎する国民が無数にいるらしいことに空しさを覚える。
8月は戦争尽くしで書いてきた。この先の日本が戦争を2度としないと信じられる国であって欲しいと心から思う。
私のところに辿り着く検索者が何を求めているかしらないが私は昭和天皇に戦争責任があったと考える人間だ。
それは歴史の事実であると思っている。ゆがめることは出来ない。