戦争の、話。(その2)

育ててくれた父方のばあちゃんに関する話はもう書いてあるのだけれど軍医として戦死した
母方の祖父の話をもう少し。
祖父は貧しい漁師の家の何番目かの子供として生まれ、医者を目指していたが金がなかったので
まず師範学校に行って学校の先生になった。それから学資を稼いで当時の「医専」に入っている。
今でこそ統合されたので「大学医学部」になってそこの遺族会に、つい数年前に声がかかって
伯父が入ったようだが、元々、「医専」とは国立大学の医学部に入った「優秀」な人間を戦争に
行かせないために創設されたものでもあるそうだ。大体国立大学の医学部とは大昔も「金」のない家の子が
いけるところなどではなかったらしい。特に旧帝大クラスになどなると旧制高校、などに入らねばいけない、
それには莫大な金と時間が必要だった。だから志と頭があっても金がない、医師志望の人は医専を目指したそうだ。
「国」はそういう人材を平気で戦場で使い捨てにした。金持ちのエリートだけが入れる「大学医学部」の人間を
「守る」ために。祖父が医専を出て研修をしてようやく自分の出身地で開業したのは召集されるたった1年前だった。
令状が来た時、もういい年なので村の人たちは手をまわせば行かずにすむ、とほのめかしたらしい。
でも祖父は、元々軍医養成の「医専」を出たのだし、自分が行かなければ他の誰かが行くことになる、
と召集に応じた。同時期に近辺の開業医の息子で「医専」を出たものにも召集令状が来たが、
手をまわしたらしく戦争に行かずにすませた。「医専」は金があっても頭のない奴にも入りやすくなっていたので
戦中のどさくさで医者になった連中にはこの手のが多い。「医専」と「医学部」はのち、統合されたので
「大学医学部卒」を平気で名乗ってたりする。
祖父よりずっと若かったくせに戦地に行かなかったそいつは戦後、寡婦となった祖母に向かって
「先生は馬鹿正直で損しましたなあ」と笑ったそうだ。祖父のような貧乏な家の子が医者になるのを
快く思ってなかったのは他にも沢山いて様々な嫌がらせがあったと聞く。4人の子供をかかえて
祖母は大変な苦労をし、祖父の意志を継いで伯父は国立大学医学部に入学し医師となった。
私の母は祖父が出征した時、まだ小学校にさえ上がってなくてその下の幼児だった叔父、お腹にいた叔母も
父親を全く知らない。唯一小学生ぐらいだった伯父だけが父親の鮮明な記憶を持つ。
今、伯父は半分引退して時々中国に行って祖父がいたところを尋ね歩いている。
祖父は一緒に送られた軍医達の中で最年長で、なりたてのホヤホヤの若い「軍医」に頼りにされたそうだ。
その「戦友」から伝え聞いたところによると中国でも日本人と分け隔てなく中国人を診た祖父は
大変慕われていて南方の前線に送られる時、沢山中国人が見送りに来たそうだ。祖父は自分が貧しい生まれ育ちだから
気の毒な中国の人にも優しかったようだ。そういう軍医は珍しかったと私は伯父から聞いている。
伯父は祖父に診てもらったという中国の人に出会いたいのではないかと私は思っている。
戦地に行ってから死ぬまでの話は命からがら帰ってこれた100人中ほんの数名の人が一生懸命
聞き出してくれたものだ。しかし哀れな遺児達と寡婦に、「いい先生だった」
「木っ端にされて苦しまずあっという間に死んだ」以外の事を言えただろうか。戦死の公報が入ったのは
昭和26年、よく戦地の石が届けられたなんて話もあるようだがそんな配慮も国は見せてくれなかった。
「骨は木っ端になってない」と骨さえ拾いにいけないことを諦めさせるためだったかもしれない、
「誰にもみとられれず、苦しみながら死んでいった」としてもそれをなんとか生きて帰ってきたものが
遺族に言えるかどうか。伯父はそのことをもう知っている。だから中国に行くのだと私は思う。
70を過ぎて本当の事が知りたいのだ。
戦地の骨を拾う作業をしている遺族会が去年、初めて祖父の死地に入った。
砲撃にあった椰子の木の跡があったらしい。そこに散らばっていた時計の破片を拾ってくれた人がいて
伯父のもとに届けられた。多分祖父のものだろうと、祖父はやはり苦しまずに死んだのだと、
戦友が言ったことは本当だったと、皆それだけでも有り難いと思っている。
祖父の断片は昭和19年に亡くなって61年もたってようやく日本に帰ってきた。でも墓に骨はない。
因みに戦地に行かず、死んだ祖父の事を嘲笑うような真似をした「医師」は数年前、開業医を何年かしていたら
くじ引きでもらえるような「褒章」を「国」から、「天皇陛下」からもらっている。