戦争の、話。(その3)

私の父方のばあちゃんは自称大阪船場の商家の「お嬢様」で「おんば日傘」に育てられた、と言っていたが
どのような「乳母」さんにお世話になったのか、「お嬢様らしさ」とか言うもののかけらすらなかったように思う。
本人はそれは過酷な人生が奪ったのだと言っていたがかなり怪しい。
まあ、父親が「わしはバルチック艦隊を最初にみた日本人の一人だ」なんてふく人だったので、
その影響があったのでは、と最近まで思っていたが海軍は実は民間の商船に偵察を依頼した話を
どこかでちらっと読んで、あら、百年近く、曾じいちゃんはほら吹きだった説が覆るのかしら、と思った。
それはともかく、その曾じいちゃんはその後、船を3隻沈めて店をぶっ潰し、ばあちゃんは結婚したものの
私の父がうまれる少し前に結核で相手に死なれると言う悲劇にあい、相手の家に父は引き取られたが、
父が虐待を受けていると言う知らせを受けてばあちゃんは父を引き取りに行ったそうだ。
で、その後ずっと年寄りの面倒と息子の世話をして働いた。戦争中に疎開してそこで様々な嫌がらせも受けたらしい、
本人曰く、「都会から来た美貌の親子をドンビャクショウのイナカモノが妬んだ」そうで、
「ホンマにばあちゃんは苦労した」が口癖だった。でも叩かれても全くへこまない人だったので
元気なうちは誠にうるさい人だった。苦労自慢、とでも言いたいような話をよく聞かされたものの
実は多分一番辛かっただろう話を私はほとんど聞いた事がない。結核で死んだじいちゃんの事は
大変な色男で優しい人だったとしかいわなかった。またその家の人たちの事も一切聞いてない。
だから父方の親戚は今は誰もいない。
前置きが長くなったがそのばあちゃんは疎開中にとある牛乳工場に職を得て、だんだん男手が少なくなって
いつのまにか実質工場長的役目をやっていたそうだ。「府立の女学校を出た人間やから」
とばあちゃんは必ず自慢した。「しかも国体のバスケットボールで準優勝した時のキャプテンやった」と、これも
なんの関連があるのか必ず付け加える。私の話が散漫なのはこのばあちゃんの英才教育の「たまもの」に違いない。
ま、なんにしても工場を運営していくのに一番の敵は地元の訳のわかってない軍人と軍人気取り連中だったそうだ。
威張りくさって「女が」とか「よそもんが」とか言ってたくせに戦争に負けて米軍が進駐して来て
工場にミルクを調達するために現れるとなった時、まっ先に姿を消したのはその連中で、取り残されて
女ばかりになった工場でばあちゃんは若い娘に何かされてはいけないと隠し、一人で進駐軍を迎えたと言う。
女学校でちょっとだけ習った英語で応対して大変立派に振る舞った、と本人は言うが定かではない。
ばあちゃんはてっきり勝手にミルクを持って行くに違いない、と思いこんでいたが米軍の将校達はちゃんと
「マダム」と声をかけ、通訳官も連れミルクを「買う」交渉をしてくれた。それまで軍は「徴集」と称して
ロクに金を払わなかったのでまた驚いたそうだ。何にしても米兵はものすごく洒落ていて礼儀正しくて
それまで「ヒンチョコマイ」「オトコノデキソコナイ」しか国内にいなかったので、ばあちゃんは彼らを見て
これじゃあ戦争に負けたはずだと思ったそう、ばあちゃんももう少し若かったら米軍の人に夢中になったかもしれん、
としみじみその正直なミーハーぶりを語ってくれた。
そしてまた、「陸軍のアホンダラアが戦争なんておこして負けてからに」
東条英機みたいなヒンチョコマイやつがおったから戦争に負けてしもた」と、なんでかばあちゃんは
東条英機を「ヒンチョコマイ」とよく言っていたがそれは単に工場にいた軍人が
「ヒンチョコマイ」だけであったのでは、と思う。大体東条英機をみた事ないと思うしな。
ばあちゃんは「うちはネーヴィーの家系」となんでか自慢してたんで海軍さえちゃんとしてたら
戦争も起こらず日本も負けずにすんだような事を主張していた。(ホンマか?)
ちなみに明治生まれのばあちゃんの身長は160cm以上あった。(さすがバスケ部)
で、「ヒンチョコマイ」軍の連中を普段は見下ろしてたそうだ。それもさぞかし気に入らなかったろうなあ、
軍の人間は。母方のじいちゃんもあらかたの軍人より背が高かったそうだし。
えーと、オチが「戦争中、背の高い人間は損」にでもなりそうなんでまた明日。(社会科の先生も背が高かった)
大正デモクラシーに行き着かなかった。実は本人がそう言ってただけであまり私もよく知らない、
大正時代は結構自由だったそう、それがふと気付けばなんだか息苦しい世の中になっていたと、
今にもあてはまるようなことを言ってたのを聞いた。ばあちゃんに関する話はつきない。お盆、だなあ、、