「戦争の、話し」、を、おいといて。

本当は自称大正デモクラシーの人間の父方のばあちゃんの話を書こうと思ったのだけれど
いつも楽しみに読ませて頂いているkmizusawaさんから(と、もう一方、有り難うございます)
思いがけずトラックバックをもらったので思った事などを。
今、私が自分の戦争に関する記憶の断片を書いているのは子供達に話しておこうと思ったためで
自分の中で整理しながら拙い文を綴っている。「教師への暴言」のエントリには思いがけない多くの反応を
頂いたので、驚いている。これは、私がその先生の事を本当に好きだったのが少しでも伝わったのではないかと、
書ききれなかった、その当時あった先生への申し訳なさが大いに慰められたようでとても嬉しい。
本当はもっと色んな事があったのだ、子供時代の私には理解しきれない事が。
40前にして思い出すと、子供の暴言以上の威力が先生にふるわれたのを、今はとてもよくわかる。
kmizusawaさんが御親戚の事を書かれているように、60年代生まれのまわりではまだ戦争に行った人たちが元気で
色々戦争の「ナマ」の話をしてくれたのでそれを聞きながら私達は育ってきた。
私はそれをちゃんと整理して伝えていくべきではないかと考えている。
今は「誰かのために死にたい」とかそれが「愛国」だとか、そんな世迷い事を平気で言うような風潮があって
そんな連中を「靖国」に集わせていいものか、と私は腹が立ってしょうがない。
靖国にいる人は皆、死にたくないのに死んでいった人ばかりじゃないか、たとえそれがA級戦犯であろうと、
彼らが合祀されるのは間違いだと思うが、彼らとて少なくとも死にたいと思って裁かれたわけじゃない。
誰かのために死にたいと言うのなら今、死ぬほど働けばいい、簡単に過労死ができる、
過労死していく人たちは皆かつての戦士のように死にものぐるいで働いて、会社「強制」の「滅私奉公」に
「使い捨て」にされているんで、本当に現代の「戦死」とは「過労死」だから靖国がもし国の機関になるなら
今までの過労死の方々を祀ってあげたい。「誰かのために死ぬ」なんて考え方がいかにアホで下らないか、
過労死で残された家族は「私達のために死んでくれてありがとう」なんて思うと思うか?
ショーもない自己愛を丸出しにするんじゃないっっ!!それも言ってるのがまだ20代の訳のわからない若者達だし、
以前いつも良質のエントリを書かれる方が「真面目な若い人ほど右傾化する」とされて、私も
なるほどな、と思ったので彼らの真面目故の暴走はある程度容認しなければ、と考えているが、
許しがたいと思うのは私と同世代、或いはもう少し上の「いい年」の上手に文章を書くブロガー達が、
絶対戦争と言うものを知る人を間近で見たはずなのに、下手な戦争賛美ををそそのかすような説を弄すること。
例えばkmizusawaさんのエントリでは戦争経験があるけれど実に嫌な教師がいたことを書かれていて、
でも今思い返すと気の毒な人かもしれない、と考えることもちゃんと書いていらっしゃるので、
それこそが、若い世代より多少知識のある私達世代が本当にするべきことじゃないかと思う。
昨日書いていて、私は先生の事はとてもスラスラかけたのに戦死した祖父の事はなかなか言葉が出てこなかった。
先生の事を私はよく知っていたが祖父の事は全く知らないせいだと思う。私は実の祖父を知る機会を奪われた、
かつての戦争によって。それを「国を守るために」なんて都合のいい言葉でごまかされたくはない。
あの戦争はあきらかに間違いだった。そして全ての戦争は「間違い」だと私は心から思う。
「平和ボケ」、何が悪い。「血を流さずに金だけ出す」、それは国民の「血税」じゃいっ!!
なんでそういうことが言えないのか、そういうことを思いつかないのか、ホンマ腹たつ。
祖父が出征した時お腹にいた末の叔母は当然父親を知らない。そんな子供から、また子供が生まれて
そのまた子供も育っている。だから私は自分が教えてもらった戦争というものをネットの片隅に書こうと思う。
戦争賛美なんか絶対しない。全ての戦争は「悪」だと思う。「正義の戦争」や「聖戦」なんて、ない。