戦争の、話。(その1)

小泉総理、靖国参拝カウントダウンが始まっているが別に行きたければ行けば、と思っている。
もうこれは自己満足の世界だと本人が突っ張ってる以上相手にする価値さえない、辞める人だし。
それより広島や長崎の原爆式典の方々が小泉総理にはっきり、
「原爆が投下される前に戦争をやめられなかった人たちが合祀されているところに
平気で参拝するような人には来て欲しくない」と断ったらいいのに、と思う。
どうせおざなりに来るだけなんだから、もう政治家のパフォーマンスに使われるのは嫌だと拒否したって
いいんじゃないか、そうするわけにはいかないのかなあ。
「日本を守る」「アジアの平和のために戦う」なんて言って、結局何にもできなかったA級戦犯達を
「英霊」なんて奉るのがどれくらい他の犠牲者達を馬鹿にしている事か、
戦争が終わる1年以上も前に戦死していながら正式の公報が送られてきたのは戦争に負けてから6年も経ってから、
靖国に奉られるのはそれよりまた後、だった軍医として従軍した祖父(母方)を持つ私にはわかる。
祖父は東条英機なんか大嫌いだったと思う。と言うか、軍人が嫌いだったようだ。のこされた話の断片からすると
どうも軍部の人としょっちゅう悶着をおこしていたらしい。40前後で軍医として徴用された祖父は
上海の日本人租界ではじめは日本人相手の医者をやってたらしいが中国人も診るので軍部の反感をかったと聞く。
それからあきらかに心が弱く、頭のおかしな奴を「前線で他の人間に迷惑がかかるだろう」と
戦線に送らないようにも骨をおっていたそうだ。「ほどほどに」と言うまわりの意見も聞き流していたので
制裁もあってか最前線に送られ、3月経たずに爆殺された。食料がないので山芋を掘りに行くと出たところを
敵機からねらい撃ちされたと聞く。前線では戦争が終わる1年以上も前から食料さえ十分ではなかった。
椰子の木陰に逃げ込んだところを椰子の木ごと吹き飛ばされるのを見た、と「戦友」に当る人が
壊滅状態だったその部隊の数少ない生き残りから聞き出してくれた。
祖父は約100名の軍医として徴用された人の中の一人で、100人中生きて日本に帰ってこれたのは
10人にもみたない、と伯父から聞いている。
祖父は身体の大きな声のでかい、つまり態度のでかい人だったようでそれだけでも多分軍の人間からは
反感を買っただろうなと予想がつく。「中国人を診るのはやめろ」と軍から言われても「中国人も風邪を引く」
と言い返していたそうだ。祖父が戦地から送ってきた葉書は自分の名前と宛先の祖母の名前以外は
べったりくろぬりにされていて何を書いてきたかさっぱりわからないようにされていた。
皆そうだったのかもしれないが軍の悪意を感じる。祖父を死なせた連中の責任者は東条英機だったと
私は思っている。BC級戦犯についてはひょっとして祖父ももし生きのびていたとしてそういう目に
あったかもしれないので同情するが戦争中も食うに困る事のなかった連中は論外だ。
私の東条英機嫌いは実は「大正デモクラシー」の人間だ、と自称していた、これは父方の明治生まれの
ばあちゃんに由来する。このばあちゃんからの戦争の話も子供時代に聞いてなかなか面白かった。(続く)