覚え書き。

先日亡くなった伯父が古希の祝いの会報に
「老いは緩やかで穏やかなものだと思っていたが意外にどう猛で激しいものだと知った」と書いたのを
初めて聞いた。
4人兄弟の一番上の伯父は軍医として戦地に行った祖父のかわりをわずか11才の時からつとめてきた。
祖父は昭和19年にニューギニアで亡くなっている、戦死公報が入ったのは戦争が終わった遙か後、
その骨は今もパプアの島で散らばっている。
祖父は師範学校から教師に、その後医専へ、家族を養いながら苦学して医師となり、
研修を終えて郷里で開業して間もないときに招集に応じた。
伯父が歩んできた道は決して豊かなものではなく、
郷里で医師として活躍する機会を奪われた父親のかわりになんとか国立大学医学部に入学し医師となり、
生きた父親の顔を知らない末妹が大学を出るまで経済的支援を続けた。
父親が医師になるまでの苦労を子供心に眺めてきて、また決して平坦とは言えない自分の青春時代を
歯を食いしばって耐えてきた伯父は自分に厳しいように身内にも厳しかった。
身内達の成功を心から願ってきた。時に激しすぎるほどに。
伯父は一度、もし祖父が生きていれば帝大の医学部を目指した、と言ったことがある。
医専旧帝大の医学部の学生を戦地に送らないために作られたもので、もし祖父の家が豊かであれば
帝大の医学部に進学し、戦争に行かなくてすんだ、と祖母はそういう考え方をしていたようだ。
(実際は、医専には数種類あり、戦争が始まってから急に出来た医専が軍医養成用で、
祖父が出た医専はそれより前に作られたものである、とこの1年ぐらいでうっすらわかった)
私の同世代の身内の半分は医師で、悲願の旧帝大卒のものも幸いにして存在している。
伯父の成功者であることを渇望したと同様の医学への情熱はいとこ達に受け継がれている。
このことに関しては伯父は非常に満足していたことと思う。
ただ、自分が老いに立ち向かうとき、模範となるものを伯父はもっていなかった。
祖母は60足らずで伯父と同じ病でなくなっている。
肉体の不具合を訴え始め、精神の衰えを知らずして周囲に見せる前に逝ってしまったため、
近年、伯父は1人で老いと戦わねばならなかった。
伯父は人に頼るすべを教えてもらわなかった。
「おまえは医者の息子として必ず医者になれ」父親から教えてもらったのはそれだけだった、
同じことを息子に言うしかなかった。息子はとまどいながらもなんとか医者になった、
しかし、同じような父親になることは拒否している。
伯父は拒否するような父親像さえ知らないで、家長となり、父親となった。
その寂しさを、悲しさを、わかってやれたのは、すぐ下の5才違いの妹である私の母だけだった。
その妹にさえ自分の病いを押し隠していた。
戦争が長きにわたって人から奪っていったものは、まだまだたくさんある。
かつての戦争が聖戦だったとか、なんだとか、口先だけで騙る人間に私は心から憎しみを覚える。
伯父は激しい怒りを原動力に人生を築きあげてきたと、私は理解し始めていた。
どう猛な老いと戦おうとしていた、それを飼い慣らすすべを誰にも教わらなかった。
弱い人をかばう人だった、優しいのに不器用だった、病いや死は敗北だと考えていた、だから憎んでいた。
死は病いの痛みから彼を解放した。けれど私は、最後までその痛みと闘った彼を惜しんでいる。