「公立校」は本当に「ダメ」なのか?(ぬけぬけ編)

ぬぬ、いつも尊敬をもって拝見するブログ主の方からコメントをいただく。(finalvent効果か?)
ウーム、これは書いた事がどう受け取られたか不安、博打の世界でもタネ銭が多い方が最後は勝つのが「数」の法則、
そのことを今さらうんぬんするのは私の本意ではない。
問題はその先にある事、親がいい学校だと信じたところで子供は同じ受け取り方をして育つか私には確信がない。
子供にとっては比べようがないのでいい学校であっても「当たり前」に受け取ってしまうのではないか、
丁度、窓ガラスがしょっちゅう割られててパトカーが学校のまわりを常時ぐるぐるまわる中学を
当時中学生の私が「ふつー」と信じていたように。これは当時の同級生と話をしていても感じ方は違っていて
「物凄く嫌だった」と言う人もいれば「ああいうのもありなんじゃない」という人もいる。
「ワル」の一部と見なされた、くわえ煙草をして自転車で走ってるところをパトカーに拉致された同級生は
「パトカーって、中からは開かんの初めて知った」なんて話す。格別こたえていた節もない。彼は今、中学の先生だ。
私の中学の同級生には医者になったものもいれば刑務所を出たり入ったりするやつもいる。
ところでダーリンは大学附属出身者なので同級生の皆様方、見事なまでに素晴らしい肩書きをお持ちである。
ムショ帰りなんて間違ってもいそうにないし、よしんばいたところで「行方不明」とかくされる事だろう。
で、それに私が憧れるかって言うとすみません、何のうらやましさも感じません、
私は人生にバラエティーを求めたいのです。古い言葉で「頭に「や」のつく御職業の方」のご家庭のご子弟も
誠に由緒正しくご家業を忠実に継がれると言う事実を、複雑な家庭であってもじっと耐えてがんばる稀な子を横目に
荒れた学校で流れ弾に当らないように匍匐前進する事を、
運悪く弾にあたっても自分でその傷をなめて直すくらいのたくましさを、私は子供に望みたい。
金で整えられる環境に私は価値を見出せない、金がなくなったらどうするのか、
まるで綱渡りのように子供を私立に通わせる人がもし、病気にでもなった時、子供は学業を続けられるのかどうか、
よけいなお世話だろうが心配になる。
私の学校に望む事がかなり他の人と違うのかもしれない。「教育」とは「知識の量」だけではないと思う。
どこででもなんらかの知恵を得る事ができると私は信じる。だからあえて公立中学がダメ、とは思わない。
公立中学に通う事が「負け」とも思わない。そしてまわりが「負け」と見なす事も許さない、
中にいる人間が「負け」と思う事も許さない、
「だからなんだって言うんだよ、ちくしょう、負けないぜっ!」というココロ、
これを私は荒れた中学で一番強く教わったように思う。身内は中学受験をさせない私を「今は時代が違う」と
さんざんせめた。でも時代が違うなんてのはしょっちゅうだ、それがどうした、あたしはこの道を爆走するぜっ!
と決めたら絶対動かないんで親も諦めた。今のところ上の娘は出来もよく親も文句のつけようがないらしいので
娘よ、どうもありがとう、あんたはお父ちゃんに似て本当に出来のいい子だよ、こんなお母ちゃんでごめん、
あんたはお父ちゃんみたいにお母ちゃんみたいな変わった配偶者つかむんじゃないよ、
お母ちゃんみたいに出来のいい人を見つけるんだよ、それは過酷な生存競争で得られる知恵なんだからね、
って結局、支離滅裂。筋の通った書き方が出来ないのは公立中学で育ったせい?いいえ、単なる自分の勉強不足です。
子供に親がしてやれる事のどれが正しいかなんて本当のところ誰にもわからない。
私はいつでも自分は子供にとって間違った事をしてるんじゃないかと苦しんでいる。
子供の進路をある程度導くのは親の責任だといわれている。でも子供は親自身ではない、別人格をもっている、
だから決めてやるのには四苦八苦する。それでも、間違っていたら間違っていたなりに
なんとか自分でこれからどうにかしていってほしいと思う。そのためのサポートを惜しむつもりはない。
それができると思うから私は私立に逃げ込まなかったのかもしれない。教育は本当に難しい。