差別の観念(「エマ」を契機として)その1。

「国民の義務」を果たしたあとの結果に興味はない。はじめから出来レースだったんだから。
それより少し私自身の「差別」という難しい観念について書いておこうと思う。
私の専門はディケンズ、長きにわたるヴィクトリア朝の最盛期に当たる最も英国が光り輝いた、そしてその分
闇が濃かった時代である。ヴィクトリア時代的きれいごとっていうのは調べれば調べるほどボロが出るもんで、
むしろボロの方が多かった。つまりは光の中にいる人間より闇にうごめく人間の方が遥かに多かったわけだ。
私が実は「エマ」を評価しないのはそこにある。専門分野だからとすすめられて1巻目を見たが1話からダメだった。
「エマ」という、メイドの気を惹くために紳士が手袋を忘れるなんてのにはこの際目をつぶるが、紳士の昔の
家庭教師であるその女主人が気をきかせて「エマ」に手袋を届けさせる、なんて当時の良識としてはありえない。
厳然たる身分制度があり、その女主人がとるべき態度としては手袋は全然別の年老いたこわそうな女に渡させる、
あるいはまた取りに帰ってきた紳士を自分で出迎えもうメイドは出さない、など
「うちのメイドにちょっかい出したら許しませんよ」とはっきり示すのが正当だ。気のきいたメイドと紳士の猥談なら
この当時にも腐るほどある。つまり紳士の性のはけ口としてメイドは常に狙われていた、それを防ぐのが
雇い主の義務でもあった。またかつての教え子が面倒を引き起こす事がないようにきちんとわきまえさせる事も
女主人の役目でもある。この時点で私はこの本を投げ、今回暇つぶしにパラパラめくって例の「人さらい」の絵を
見るまでスルーだった。作者としてはほんの少しいかにも「ヴィクトリア時代」的な要素を取り入れた、
ディケンズ」的な表現とでも思っているのかもしれない、実際、そういう受け取り方をしてる馬鹿もいた。
しかしその連中にききたい。お前らディケンズはどこまで読んだ、「ボズのスケッチ」から
エドウインドルード卿の失踪」まで読んでるのか、そしてその時代をどこまで知ってる、知っててあの表現を
「オッケー」なんて言えるのか!馬鹿ものどもよ!と対抗馬に「ホリエモン」を当てられた亀井静香ちゃん並みに怒っとくわ。
とにかく、いつまでも管巻いてる馬鹿にいいかげん私は腹が立つ、こら、わたしんとこにこんかたーーーーっぷり、
ヴィクトリア朝期の蘊蓄かませてやる、うんと深い闇の分を。と、まあ「差別」の話にいくまでに大分脱線してしまった。
「差別っていう方が差別だ」なんて「差別をする側」の詭弁とはっきりいっておこう。
「差別じゃない」と決めるのは決して「差別をする側」ではないんだよ。その常識もわきまえない人間を私は深く軽蔑する。
つまり日本をでた事がなく、「日本人」として「差別」を受けた経験がないんだろう。私はあるよ、
「エマ」ファン、大好きの「英国」で。長くなるんで続きはまた明日。これに関してネタは山ほどある。乞う御期待。