雑談。

どうやら湊かなえさんに子供はいるらしい。
フーム、ああいうことを書いて「でも私は違う」とほのめかす系かな?
そしてそれに引っかかる私は「深層心理ではそういう人間」ってところか。
と、私もまたわかりやすい「物語」を作る。
「これは不快だ」と発することにもう「型」ができているのだものね、それでも私は「やる」、
湊さんもそういう方向の人であってほしいものよ、、
「母性」は「母になれる人」と「娘のままでいたがる人」2種類いる、がテーマらしい。
これもまたわかりやすそうな「物語」だなあ、やはり、私が読んで面白いものではなさそうだ、敬遠しておこう。
これは「母というものはこうあるべき!」を全肯定していなければ成り立たない「物語」、
もう決まりきった「母親の型」を「理想!」としている、「母親」なんて昔から「色々」なはずなんですよ、
「こうあるべき!」はたいてい「嘘」、
自分が型から外れるために、自分とは違う人を型に突っ込む、されたくないことを他人には強いる、
自由とは、他人に不自由を押し付けなければ得られないものか。
ふと、「こうあるべき父親!」ってのはどんなものか、不思議に思う。それにハマる父親がいったい何人いるか。
私は「これは父親になれまい」と思っていた男たちが、3人の子持ちになってPTA活動に勤しんでいたり、
年をとって出来た子供をベビーカーに乗せて嬉しそうに押しているのを見てきたので、人間ってね、変わりますよ、
結局「型」なんてないんですわ、本当はね。
「子供なんていらない」と放言していた男でも意外にちゃんと親になれたりするもんですわ、「子供を持つのが怖い」とか言ってた女でも。
ま、配偶者に恵まれたってことかも。
人間造形の大抵の「型」はディケンズがほぼ確立した、との説を聞いたことがあるが、200年近く経っても、私たちはそれをなぞりたがる。
「型」や「物語」は人に安心感を与えるということか。