日常雑記。

昨日「乗っ取り」ソフトの被害者親族のコメントを読ませてもらって涙した。
親であることに罪悪感を常に持たされて生きてきたんだなあ、私たちは。
息子さんがやってもいないことを認めさせられたと同様に、ご親族も思ってもいないことを思わされた、
追い詰められた息子さん同様、ご家族も同じように追い詰められた、ご家族を追い詰めたのは私を含む「世間」だ。
冷静に考えれば、あの年齢でネットを使う子供のほとんどがなにかすればIPアドレスで個人が特定できることを知ってるので、
「なぜ?」の疑問は当然あってよかったんだけど、ご家族も上手に「物語」にハメられてしまった。
「一見普通に見えるただの大学生」「ごく普通に見える家庭」という言い方を何度私は聞かされてきていることか。
「自分の子供も容赦なく疑え!」が鉄則であるかのように信じ込まされてきたのはなぜなんだろう?
子育てがそれをする人が少なくなって「見世物」になってしまったせいなんだろう、親は特に責めやすい、それをすることで簡単に「正義の味方」になれるから。
それも作られた「物語」の一部。実際の人間は「物語」ほど、単純な作りではないんだけれど。
そういえば、今朝の新聞で湊かなえの新刊の大広告を見た。
タイトルは「母性」、売り出し文句は
「母が私を愛したように、私も娘を愛せるはず、だった、、」
「愛されたいと思うほど、愛したいと願うほど、愛は歪んでいく」、とはあまりにも「いかにも」で、私は読みたいと思わない。
湊かなえさんに子供はいるのかな?
私は「告白」の余りにも薄っぺらな「母性」にうんざりしたので、読むことはない。
でも、社会の期待に応えるとおりの「物語」を上手になぞるのが好きな人にはたまらないんだろう、本当に「母性」でもなんでも安く売られるようになったもんだ。
「乗っ取り」ソフト被害者のご家族は押し付けられた「物語」の中で、苦しみながらも耐えた。そして無実が証明されて声明を出した。
ご家族は自身を責めながらも、家族の絆は壊れなかった。世間が欲する「物語」の期待を裏切って。
いつか、社会で「家族」が見世物にならない日を私は待つ。