日常。

パソコンを初期化してもらってグーグルクロームではなくエッジを使い始め

今までのデータを移し替えたはずが間違って消して再ダウンロード。(涙)

何とか使えるようになった。

実母にののしられまくっているのはだいぶん前からなのでようやくネット日記に書いて

心の整理がついた。書き残して、自分でもう一度読んで、それでようやく納得をする。

私にとってのネット日記の効能はこれが大きい。

誰かが読むかもしれないからある程度心を整えて書くことで、落ち着く。

ネットの知り合いの方にほんのり慰めてもらえるのは思いもよらぬ大ボーナス。

なんか申し訳ないなあ、と思ってしまう。それでも書くのは必要だ。

20年近く前に亡くなった伯父が

「老いは獰猛に私にとびかかってきた」の言葉を残したのをずっと思い出している。

伯父は母の兄でこのご兄妹は非常によく似た気質の人間だったので、

なるほど「老いが獰猛」とはこのことだったか、と母を見ていると納得する。

伯父は善人ではあったが癖が強く決して当たりの良い人ではなく

今だったら大好きな職業である医師を続けられなかっただろう程に暴言吐くので

時代が昭和でも周囲は大変であった。

仕事を辞めて数年でがんで亡くなったのは何かの恩寵では、とまで私は思っている。

母は兄をこよなく尊敬していたのでそんなことを言ったらはりつけにされるが。

(もうされてるか)

しかし、確かに「老い」を獰猛なものとしてとらえるのはある種の人には有効で、

大変な負けず嫌いで不屈の精神だけで人生を乗り切った、

自分の肉体に絶対の信頼感を持つ人が、だんだんと自分が衰えている、

それを受け入れがたいのは何となく私も理解する。

その上に認知症特有の症状も出始める、この20年ほど、年を取った親と付き合って

孫が祖母の面倒を見ている、その祖母がおとなしそうな孫をボロカスに罵る場面にも

出くわしたりして、本当にこれは若者にはきつい。

「ヤングケアラー」問題は本当にどうにかしないと、

今の若者が子供を欲しがらないのは

老人の世話をして罵られて心が折れているからでは、などと私は思っている。

老いを見るのはいろいろと絶望だ。

獰猛な老いにとびかかられている人は被害妄想と思い込みが強くなり、

好き嫌いも激しく、少しでも嫌なことが我慢できない。

理性のタガは簡単に外れてしまう。

これをまだ人生経験の浅い若者が目にするのはつらい。

中年どころか、すでに老人の域に差し掛かる私の年代でもきつい。

とはいっても、私ももう十分、老人、すでに年寄りの老獪さは身に着けて

罵り狂う相手がすっかり弱ってしまうのを待っている。

そうなるまで近づかないのも人間の知恵というものよ、、、

というわけで、私は小狡くてろくでもない、常に自分のためだけに動く娘なので

(母親談)そう立ち回らせてもらうことにしている。

それまでに何かがあれば「ラッキー」と思うことにする。

「老い」と対応するのに人間性を持っても仕方がない。

「老い」は獰猛な動物なのだから。

これが正解とはもちろん思っていないが、姑息な人間のどうしようもない対処法だ。

私はまあまあ、元気。終わり。