「ボケ」を思う。

現在実母が私を罵り狂っているのにへきえきとしている。

そういう母親にやさしく寄り添える孝行娘ではないので距離をとって

たまに電話をする程度ではあるものの、

それだけでも威嚇されたりして神経を削られる。

しみじみ、私は自分の子供運は良かったけれど、両親運はいまいちであったな、

若かりし頃はこういうところから目をそらしていたので結婚し子供を持ったが、

もっと遅くに結婚していたら子供を持つことをためらったかも。

こんな親にしかなれないかも、の可能性は子供を持つ意欲をそぐ。

ボケてはいても的確に攻撃するのは兄弟の中で私だけなので誠になめられていると

情けなくなったり。当たり散らす相手を私に絞っているのは他の兄弟にやったら

二度と再び会えないからか、私ももう顔を見るのは葬式の席だけで、と願っている。

とはいうものの、簡単に死んでくれるわけではないので、

いやいやながら時々連絡するものの、あまりに罵り狂われて、

またその声がすでに人間の声ではなく、まるで獣の声のようなのが、

狂う、とはこういうことなのか、長生きしたくないなと萎えている。

人間が「ボケる」とどうなるかの実感はつい最近までなく、

タガが外れて人間性がむき出しになる、がどういうものか、ぴんとは来なかった。

しかし、実家の母を見ているとこの人は本当に昔からヒステリックに叫ぶ人であったが

アル中の父が亡くなってしばらくおとなしかったのがだんだんとまた元に戻る、

それもまた何故か一番気に入らない私に当たりまくる、

彼女の長子、長男教の凄まじさには目を見張る、なんで昔の人はこうかね。

他の兄弟は離れて暮らしているので現在の状況はわかっていなかろうが

わかっていたとしてもどうしてくれるわけでもない、

私のできなさ、至らなさを兄弟に口を極めて罵っていることは漠然と知っているものの

さすがにそれを真に受けて私に何かを言う勇気は幸か不幸かなさそうなので、

それだけに救われている。

私の周囲では子供を都会の大学に出してもまた戻ってきて近所に暮らしてくれることを

最大の勝ち組とみなしているが、私は母を見て、母の子供である自分を

全く信用していないので、娘たちが都会に定着しているのに感謝している。

万が一にでも私が母のようになったとしたら、私は自分を許せないだろう。

でも考えてみれば、私は母ほど激しい性格の人間ではなく沈黙の上手な子供だったので

大丈夫かもしれない。が、用心に越したことはない。

最近は出産後に「がるがる期」というものがあるそうで、

ぼけ老人にもあるんではないかね。なんか罵るのに喉を鳴らしとったよ、先日は。

そういう優雅な日常を暮らしているおばはん。

ネット日記に吐きだしてやや心を軽くする。とほほ。おわり。