かっちーん!

と、久々にきた。ちきりん女史のエントリを読んで。

「選択肢がないから弱者」だそうだ。

しかし、一般人にそうそう選択肢がたくさん用意されているわけではない。

それで「強者とはいつでも辞められる人間のこと!」とは

ご自身がいつまでもブロガーを辞めないのは

自分が「弱者」だと考えられてのことか、と聞きたくなる。

それはともかく、「強者には選択肢が多いのでいつでも辞められる」って、

その「やーめた」で放り出された何らかの「仕事」を引き受ける人間を

「弱者だからそんな仕事しかないんだろ」とあざけるのは

「違うだろ!」と、私は言いたい。

 弱者がいてこそ自称強者が「やーめた!」が出来る選択肢を持つ現実を

一瞬でも「やーめた!」が出来る強者は考えたことがあるんだろうか?

放り出された仕事を誰もが強者ぶってやらなければ、この世界は成り立たない。

責任感を持ってやり上げなければいけない仕事はこの社会に無数にある。

たとえば田舎の年取った親の面倒を見るのを

「やーめた!」と都会に出ている子供には出来るだろう。

他の兄弟が親の近くに暮らしているならば、

面倒なことを丸投げにしてしまう「選択肢」が用意されている。

その立場を「強者」と呼ぶのなら、確かにそうだろう。

だからと言って、面倒を見る人間を「弱者」と呼んでよいものか、

押し付けられる側から選択肢を奪った上で「弱者」のレッテルを貼る、

それが「強者」のやることなのか、と私は聞きたい。

「どこででも暮せる!なんにでもなれる!」と自称強者は言うけれど、

その選択肢は、誰に与えられてきたものか、誰を犠牲にしてきたものか、

一度でも考えたことがあっただろうか?

それで選択肢を与えられなかった側に「弱者だから!」とは、

不都合な現実と戦うより「逃げる!」を格好良く飾っているだけじゃないか、

その選択肢は誰かを犠牲にして成り立つものだ、すら思い浮かばない、

想像力のなさを「強者」とするのはあまりにも身勝手すぎて

むしろ、そこまで自分を「強い!」と装わなければ生きていけない、

どれだけメンタルがやわいんだ、と私は言いたい。

責任感なしに、やりあげられることなんて世界に多くはない。

やめない人間には「やめる」選択肢がないのは確かなことだ。

でもそれだけじゃない、やるべきことへの「責任感」も持っているからだ。

誰にも迷惑をかけずに「やーめた!」が出来る人間なんているもんじゃない

「やーめた!」が出来るのは

都合よく他に押し付ける人間がいるのを知ってこそ、出来ることだ。

確かに自称強者は、その無責任さをごまかすことには長けている。

でも、押し付けられた側が押し付けた側を認めたとも許したとも思うなよ。

多くはない選択肢の中で、自分に残されたものと必死で戦う人間を

「弱者」と呼ぶ「強者」なんて、私は認めない。

責任感のなさをくだらない言いかえでごまかすな!と私はここに書いておく。

強者はやめる選択肢があったとしても、やめるのを選ばない人のことだと私は思う。