あたえられるものはなんだろう?

子供の教育について今でも思うことは、自分が与えられるものは何か、で、
環境はもちろん大事なんだけれど、親がそれを完璧に整えるのは難しい。
最近、ようやく「子供の教育にお金をかけすぎる」ことに懐疑的な説もぽつぽつ現われて、
わたしはこれが一般人には一番真っ当な考え方だと思っている。はてなでは見かけないけどね。
子供の教育はどれほど浪費したとしても責められることがほとんどない奇妙な領域で、
たかだか私大の帰国子女枠を買うためだけに千万単位のお金をかけるご家庭もあったりして、
それで得た「ブランド」にどれほどの価値があるか、私の知る限りでは、ほぼ無意味だ。
しかし「子供の将来のために!」は恐るべき説得力がある。
「未来に投資」は私の娘たちがまだ就学年齢だったころによく言われた言葉だ。
現在成人した娘たちの周囲を見ると、
投資がうまくいった例ももちろんあるが、あまりうまくいかなかった例もある。
結局「やる」か「やらないか」は、結果にあまり関係がない。
その上でやはり「やる」は尊い行為だと私は思う。
子供の「将来」ほど親にとっての脅し文句はないものの、それで何も考えられなくなるのでは本末転倒だ。
親は自分を見失ってはいけない。
私は一般家庭に生まれた子供はやはり公立教育を受けたほうが良い、と今でも考えている。
私の娘たちは幸か不幸か、私立中高一貫校で育った学生が多い大学で学んできて、
彼らの育った環境のメリットはいやと言うほど見せられてきたものの、
結局は「だから、何」でもある。
そのメリットは確かにすばらしいものではあるが、それが私の子供にもメリットになったか、と言えば、
そうではない。私の子供たちは、彼らと同じ家庭に育ったわけではないのだから。
と言って、わたしの家庭が途方もなく低劣ではないだろう。
私たち夫婦にも子供の教育への考え方があって、家庭生活全般にわたってその考え方は浸透している。
その上で「選んだ」道はあながち間違いでもないようだ。
幸いにしてとてつもなく恵まれた環境に育ったご学友を目にしてもなお、
娘たちは「これでよかった」と言ってくれる。
私たちが与えた以上のものを自分の手で勝ち取ったんだろう、と私は思う。
実際、つけた道はそこまでだったのだ。それから先は、一人でがんばってきている。
与えられるものがベストではなかったかもしれないが、ベターであろうとしたのは事実だ。
たぶん、そこが一番大事なんではないか。
与えられることには限度がある。
それを知ってもらえることも親が与えるもののひとつではないか、と最近時々考える。