はてな雑記。

今日はお呼ばれであったのでネット逍遥が遅くなった。
先ほど「お金をかけずに学力をつける」のエントリを見て、そうすることの最大のメリットは、子供が子育てを恐れていないことだな、と思う。
なんだかんだで一定以上の階層の人間が子供を持つのをためらうのは「子供にちゃんとした教育を受けさせることができるかどうかわからない」
だったりして、それがうちの娘たちにはまったくないので、まあ、よかったな、と。
「大学に入るまでの勉強は簡単だ」と二人とも思っているようで、「勉強」を恐れてはいないようなのだよね。
私が今まで見てきた中で、親が子供の教育にお金をかけて、何が得られるか、というと「安心」なのだよね。
「これだけお金をかけているからうちの子は大丈夫!」の安心感は確かに「買える」。
お金をかけさせようとする側は常に「不安」を煽るから。お金を払えばその「不安」が払拭できるのは道理だ。
もちろん、それ以上のメリットもあるんだろうが、異様にお金をかける人たちは、あまりそのメリットの恩恵は受けていないようで、
お金のかけ方を間違っていない人だけが、そのメリットを受け取れる。お金の使い方もまた、教育のひとつなのだよね。
私の子供たちが義務教育を受けていたころから「公立はもうダメだ!」とよく言われてきたけれど、私の子供たちにとっては「ダメ」ではなかったんで。
それを言う人の子供たちにとっては「公立ではダメ」なのであって、全員が「公立はダメ」ではない。
私がいやだったのは「公立に子供を行かせている危機感のない親がダメだから子供もダメ」の短絡思考で、その差別目線にはうんざりした。
人は常に見下す対象を探すものらしい。
公立でも優秀な人間はいる、塾に行かなくても全国模試に名前が載る高校生はいる。
そういう「可能性」を全否定する人たちにとってはうちの娘たちはうっとうしい存在だっただろうと思う。
でもその存在は公立校育ちの、後に続く子供たちの希望になった。
うちの娘たちの通った底辺中学から同じ公立高校に進んだ子供たちが続々と旧帝大早慶などなどに入学し続けている。
「大丈夫なんだ!」と思わせることは大切。
一番必要なのは「希望」なのだよね。それがいま少し足りない気がする。
ま、具体的に言ってゼット会はよかったです。ずいぶんお世話になりました。終わり。