ふと思ったこと。

男性保育士のお着替え問題はネットでは「そんなことを気にする親がクソ!」的な流れに持っていかれているようで違和感がある。
おそらくは一番の正論として、「子供が嫌がればやめる」を読んでは見たものの、
子供がきゅうにいやになったことを、「嫌だ」といえるかな?の疑問に持つ。
その先生が好きでほかの事はオーケーであれば、余計に言いにくいだろう。
実の父親とでも、女の子が急に一緒にお風呂に入ることを拒否するのはなかなかできることではない。
私はやはり、この手のことは出来るだけ男女わけしたほうが無難だと思っている。
私が不快に思っているのは、この手の議論でやたら「ポリティカルコレクトネス」を振り回す人間がいることで、
「正しい!」「間違っている!」とは別に「やはり嫌だ」の感覚は尊重すべきではないか、
それを「仕事熱心な男性保育氏を性犯罪者扱いしている!あなたは間違っている!!」と
「正義」を振りかざされるのではたまったものではない。
「好悪」の反応は「正義」で判断すべきものではなかろうに。
わたしがある種の「私こそが平等主義者です!」の人を嫌うのは、人の好悪の感情まで自身の「正義」でぶっ叩こうとするところで
この手の人がやたらと「LGBT最高!」的な持ち上げ方をするのにもうんざりしている。
性的嗜好が人それぞれなら、お着替えをされるのに様々な意見を持つのも当然あるべき権利だろう。
とにかく極論を押し付けて自身の正論を押しとうそうとする人間がネットに多くて、辟易とする。
人が足りない、男性がやりにくい、の意見は大いに納得できるが、だからと言って、着替えだとかそういう人の繊細な部分に
「正義」を持ち出す人間には気をつけろ、と書いておきたい。
私は、年をとったとき、とりあえず女性として生きてきた自分が男性介護士さんにオムツを替えてもらうのはつらいし、
自分の母親が男性介護士さんにおむつがえはできるだけしてもらいたくない。
ただそれを言えば「じゃあ、家で見ればいいじゃないか」と「正義の正論」を振りかざす人がおそらくはでる。
自身の「正義」が絶対と信じ、こちらに力をかけることをひそかに楽しむ人間の顔の醜さを見せ付けられることになる。
少し前に「正義は気持ちいい」の意見をネットで読んで驚いたが、私は「正義は気持ち悪い」と感じるほうなので、
ものの見方は人によってずいぶん違うと感心した。
私は常に、正義を振るわれる側で「気持ちのいい正義」に押しつぶされてきた人間なんだろう。
だから「やはり嫌だ」を「正義」で押し込めようとする人間に徹底抗戦しようと決めている。
「嫌なら保育園にこどもをあずけるんじゃない」の恐るべき圧力で「やはり嫌だ」が押しつぶされてしまわないように応援したい。
男性保育士を性犯罪者扱いしているのでは決してない。
「やはり嫌なんだ」の感覚をそういう形に変えられて「正義」を振るわれることに反対したい。