ネット雑記。

今年没後100年になる英国の作家「サキ」は従軍時、仕官昇進を拒否して末端兵士であり続けた逸話を持つ。
逸話とは常に信憑性に欠けるものだが、私が「階層」云々で思い出だすのは、
この逸話のように「能力」があってもあえて上に行こうと思わない人たちで、彼らはいったいどこに属するのか。
おそらくどこの階層にも属さない、精神的に非常に「自由」な人間なんだろう。
上に行くばかりが幸せではない、と感じる人間も一定数存在する現実がネットで階層を語りたがる人には見えない。
昨日は「努力しない底辺」の言葉を見かけて驚かされたが、相変わらずその言葉に肯定的な人間がはてなに多いようで、
「リベラル」と「科学」は必ずしも一致しない現実を見せ付けられた気がした。
書き手が元々底辺にいたわけではないが見えない。はてなの人々は相変わらず人がいいというか、なんと言うか。
はてなで人気者になりたければ、子供時代のいじめ、レイプ経験、毒親育ち、宗教、介護、を語ればいい、の見本だと
彼女を見かけるたび、しみじみ思う。ネットの広告界に「ジャロ」が導入される日は来るかしら。
私は自分が地元で底辺の座を譲ったことのない公立校で育ち、自分の子供たちも育て、
また、転勤族時代の知り合いから様々な地区の公立校の話は聞いたが、どこの公立でも彼女が語るほど「人間の屑しかいない」わけではない。
彼女の公立校への差別言説を問題視しないはてなの人間に、君たちは育ちはいいのかもしれないが、頭は悪いぞ、といいたくなる。
彼らは現実の公立校を知らない。子供時代に小学校だけを公立校で過ごしたとしても、その記憶はあいまいでしかない。
その上でわかったように語られるのでは、公立校で育ったことに実はひそかにプライドを持つ人間からはたまったものではない。
たぶん、私が「自分の子供にはよい学校を!」にあまりこだわらなかったのは、
どこで育てられたとしても、あほな人間はあほな人間で集まるし、ものを考える人間はそういう人間同士で集まるのを知っているからだろう。
公立育ちでよかった、と年をとった今でもしみじみ思うなあ。
「上昇志向は絶対正義か」と、よく考える。
私は自分に能力があるとは思わないし、努力もさほど足りているほうではないと感じているが、
能力もあり、努力もする人間が、「もっと上へ!」を必ずしも信条として持ち合わせない感覚が少しだけ理解できる気がする。
「ここで自分の「仕事」を着実に仕上げる」のひそやかなプライドがたぶん、社会を大きく支えている。
「階層を上がった俺、私!」を語りたがる人にそのプライドが見えるかどうか、
「階層を上がった私は正しい!」のシンプルな人生信条を持つことは幸せなことだ。特に批判をするつもりはない。
ただ、その不可思議な意識が万能であるかどうか、
階層意識で問題なのは、「私は上階層の人間だから、その下にいる人間には何を言っても正しい!」と信じてしまう人がいることだな。
ネットの、はてなの行く末に思うところがあるので、これ以上はまとめられないが、お金が絡むがために劣化する言説があるものだなあ、
とあきれている。ここ数年でずいぶんと変わってきたものだ。今は迷走中なネット状況か。
それでも、だからこそ、時間があるときは書くようにしよう。はてなの底辺としてプライドを持っておくかな。