昔見た映画を再び見る。

昨日、「戦場のメリークリスマス」を30年ぶりに見てびっくり。あらー、デヴィッド・ボーイって美しい人だったのね。
初めて見た当時、私は高校生。「なんかくしゃくしゃした気難しそうな顔だなあ」としか思っていなかった。
現在中高年となった目でみると、私の好みからはかけ離れているがこれは「美しい」と、私の美的感覚も育ったものね、、
同じように坂本龍一も「美しい」と思ってみたことがなかったが、実際、今も美しいとまでは思わないが異様な魅力があるのは認められる。
高校3年生で何故かこの映画をクラス全員で受験前に見に行くという、なぜそのような流れになったか、さっぱり覚えていないものの
当時の感想は「なんじゃこりゃー!」
クラスの男子で一人だけ、「これはすばらしい、このすばらしさは女にはわからない」と繰り返していたので
後に出家した変わり者なので、そういう感性を持たねばわからない映画だと思っていたが、
大人になった今の目で見ると、映像のすべてがどこを切り取っても様式的で美しい。
「あれはホモ映画なんだよ」と大学時代「わからない映画」の話題になったとき、タイトルを挙げたら、友達(男)がしみじみ教えてくれて、
何でデビッド・ボーイに「ちう」をされて、坂本龍一がめまいを起こしたのか、さっぱりわからなかった私は多少納得した。
「ちう」をして生き埋めにされるとは、デビッド・ボーイも不幸な死に方だ、
そしてなぜ、たけしは「メリークリスマス、ミスターローレンス」というのか、さっぱりわからない。
そもそもなんでたけしのどアップが最後なのか、もう謎しかないような映画だったが、
今見ると、その終わり方には哀愁がある。終わり方すら、やはり「美しい」のだよね、時は人の目を変えるものよ。
私の今の解釈は、基本的に弱い存在である、それを自覚する程度に聡明であり繊細である日本軍人「ヨノイ」(坂本龍一)が
生まれながらに非常に強い人間である、そのことを隠さない英国軍人「セリアズ」(デヴィッド・ボーイ)に魅せられ
立場がお互いの本質と真逆の立場におかれていることに高い美意識を持つヨノイは不自然さを感じ、苦しんでいる、であるのだが、それで正しいのかどうか。
ヨノイの、セリアズに庇護されたいのは自分だ、の意識が彼を苦しめている。
戦時下という異常な状況において出会った人間たちの苦悩が彼らを中心にして回る、と今回は思った。
大島渚はデヴィッド・ボーイのファンだったのかしら、彼を徹底的に苛め抜きたい感が映像にあって、なんとも変態チック、
怖いわぁ、大島渚、私は彼の作品をほかに「ご法度」を見たが、これはこれであからさまにホモ映画だったような、
男が好きで好きでたまらんのか、大島渚!という気がしないでもなかったりして。
でも男が好き、というより「男の世界」という様式が好き、という気もする。
閉じられた「聖なる空間」的な、きれいとはいいがたい世界の中でどこか清潔感がある。
男ばかりを描いているのに清潔感があるのは、その映像に「におい」が感じられないせいか、汗臭い世界のはずなのに、あんまり汗っぽくないのだよね、不思議。
男が好きで好きでたまらないんだったら、そのにおいも感じる映像を作りそうな気も。単に私の感性がにおいまで感じられないせいかもしれないが。
昔見た映画を年をとってみるのはなかなか面白い。以前もなにか見て解釈がぜんぜん変わったが、何を見たか忘れた。
年を取るのも悪くはないが物忘れのひどさもセットなのでなあ、、、(涙)
たけしが若いのに驚いたわ。思えば今の私よりずっと若い、とほほほほ、、、