読書メモ・「生きて帰ってきた男」・続き

家に「凍りの掌(こおりのて) シベリア抑留記」(おざわゆき 小池書院)があるので昨日読んでみた。漫画なのですぐ読める。
これは愛知県出身の同人系作家のお父上の話で、その方は年齢も小熊謙二氏とちょうど同じ年のようだ。
シベリア抑留を経験したこの方は愛知県から上京して東洋大学予科在学中に召集されているので、
小熊英二氏が「生きて帰ってきた男」の中で何度か言及した「大卒などある程度以上恵まれたインテリ層が書き残した」シベリア抑留記の一つになるだろう。
実際、ソ連兵に持っていたものを取り上げられて悔しい思いをしたなど
「時計のようにソ連兵に盗られるようなものはなにも持ってなかった」という謙二氏とはずいぶん違う。
故に起きたことへのさまざまな感情的受け取り方は変わってくるだろう。
「凍りの掌」は著者の脚色もあって感傷を誘う書かれ方となっている。(それが悪いわけではないが)
といって、話をした「凍りの掌」のお父上も小熊謙二氏と同じく、事実を端然と子供に話しているようなので、こういう教育を受けてきた時代の人間であるのだろう。
テレビや、ましてやネットのない時代の人というのは話すときに聞き手にどこか媚びる物言いはしない気がする、
それとも、ようやく彼らの子供世代である聞き手が感傷を交えずに「戦争」の現実を聞き取る余裕が出たということなんだろうか?
なんにせよ、この二つの本の語り手たちに共通するのは、意外に「敵」であったソ連兵への恨みがそれほど「ない」こと、
むしろ「日本軍」への恨みが非常に強いこと、
これはシベリア抑留での「赤化」によるものではなく、「国」のために戦っていたのに、その「国」に敵国の奴隷として見捨てられた、
「国」に見捨てられた、とは当時の人間には本当に衝撃であったことだろう、
「国」に都合のいい教育を施されてきた人間だからこそ、当然の反応だといえる、なんと日本国は簡単に国民を見捨てることか!
ちなみにイスラム国に拉致された人間への日本の対応を見る限り、現在もあまり変わっていないようだ。まったく腹立たしいことよ。
私の小学校時代の抑留経験者の先生も「日本軍」を深く恨む人であった、ソ連兵へのうらみつらみは聞いたことがない。
この点はやはり「負けた国の人間」としての諦観なのか。
シベリア抑留中に起こったソ連の「赤化作戦」への反発もさほどではない、
むしろその思想にまぎれて暴走し始める「アクチブ」と呼ばれた同国人への恨みのほうがこの2冊の本の二人に共通して強い、
「祖国」への思い入れは深いのだろう、それがかつての日本人の根幹にあるものなのだから。
二つの本のシベリア抑留記を読むと、完全な密室における場での人間の暴走振りはどこでも起こりうるものなのだと改めてよくわかる。
配偶者に話すと「それは山本直樹「レッド」の世界か?」と聞かれたが、私はむしろアート・スピーゲルマンの「マウス」を思い出させた。
同じ境遇におかれながらお互いを傷つけあうようになる、この情けなさは万国共通のようだ。
悲惨な状況下で暴走する人間もいれば、決して自分を失うことのない人間もいたことも、また共通する。そこには、人間へのほのかな希望がある。
(長いので、また続く)