読書メモ。「生きて帰ってきた男」

小熊英二著「生きて帰ってきた男 ある日本兵の戦争と戦後」読了。
小熊英二氏のお父上の話で彼は現在90歳、実は、私の配偶者の父と同じ年である。
同じ時代を生きながら、ずいぶん違う人生を歩んできたものだなあ、とまったくの部外者(?)である私には感慨深い。
息子の小熊英二氏が繰り返し綴るように、彼の父である謙二氏は「庶民」である。
ごく普通の、縁あって東京に流れ着くようにしてそこで育った人で、「故郷喪失者」とは言いえて妙だ、
昔の人にしては腰が軽い、と思うのは私が地方民だからか、
流浪の民」というほどではないが、流れに任せて動くことにそれほどの精神的負担がなさそうなのには感嘆する。
それは時代のせいか、本人の育った環境のせいか、私にはわかりかねる。
私の配偶者の父、つまり義父だが、彼の場合、その人生で動いたことはほとんどないといってもいい。
戦時下でも恵まれた環境にいたので、動く必要性がなかった、ただ、端然とした語り口は謙二氏と義父はよく似ているように思う。
聞けばいろいろ話してくれるのだが、決して話を盛らない、「大正男」に共通するのだろうか?読みながら義父と話をしている気がした。
それはともかく、この本で最も興味深かったのが戦前の謙二氏の生活で、驚くほど簡単に親族が次々に亡くなっていったことには衝撃を受けた、
本当にぼろぼろと、謙二氏の兄弟は亡くなっていくのだ、こんなに次々亡くなられては今なら残された親族は頭がおかしくなりそうなものだが、
それも本の中では淡々と綴られているので、あきらめていた、というよりは、人間の死生観が戦前と戦後ではずいぶんと違うのではないか、
「人の命は儚い」が前提になっている時代だったような、だからといって悲しくないわけではないだろうが、「何でウチばっかり」という発想が
率直には出てこなかったのが昔の人らしい、などと、戦後生まれはまったくろくでもない感想しか抱かないことよ。
シベリアの抑留された経緯など、初めて知ることが多くて面白い、といっては失礼になるか。
あまりにも悲惨な経緯なのだが、謙二氏が淡々と話したようなので、「悲劇!」の響きはない、そこがまた、この本の強みである。
シベリア抑留に関しては、小学生時代、大好きだった社会科の先生が抑留帰還者だったので、あの先生は具体的にこんな苦労があったんだな、
といまさらながら悲しく思う、当時の話を面白がって聞きたがった小学生の私たちにどれほどのことがわかっただろうか、反省しきり、だ。
だらだらと感想はいつまでも書けそうなので、また続けるにして、ネットのほかの書評でも多く印象的だと取り上げられている謙二氏の本の最後に書かれた言葉
「希望だ、それがあれば、人間は生きていける」は私には「モンテクリスト伯(岩窟王)」の最後の言葉
「待て、而して希望せよ」を思い出ださせた。
日本の戦中戦後、どれほど多くのこのような「岩窟王」が存在したことか。
そういう人を犠牲にしてこの国は成り立ってきたのを申し訳なく思う。