(「共同研究 団塊の世代とは何か」を読んだ。(おわり)

以前、「論座」で「ワーキングプア」について小熊英二さんが書いているのを読んで、「なんで私に「ワープア」問題を?」と思っているかのようで
今回、目当ての苅部直さんも「なんで私に「団塊世代」?」と考えているような、人気のある先生はお仕事、大変、と思ったのでした。
何にでも、サラサラ書く内田樹先生はある意味すごいよなあ、って「世代論」を読んで、何を考えてんだか、私。
で、小熊英二本田由紀、と並んで、私の「癒し」の書き手、苅部さんの「団塊論」とは、その「名称の出現と発展」だったりする。
サブタイトルが「何故人は「団塊の世代」を語りたがるのか」
「他称から始まり自称へと変わった「団塊」論が意味する社会意識のありようを解く」、何を書いているかと言えば、「団塊世代の名称の変容」。
「産まれたときから「第一次ベビーブーム世代」と名付けられ、その後成長するにつれて、「グループサウンド世代」「戦無派世代」「全共闘世代」
「フォーク世代」「ニューファミリー世代」「団塊の世代」と、あたかも出世魚のように名前を変えて呼ばれてきた」
と、「団塊世代」が「他称」であった時代の著作の一部を紹介する。
その後どのように「自称」に変わってきたか、多くの本を引用しつつ、「団塊世代」という「仮面」をつける、つけたがる、
これは私個人の意見だけれど、「自意識過剰気味」の一定層を分析している、それなりに面白くはあったが、あまり乗り気な話題ではなさそうな、
結びの「そうした展望を「団塊本」の群は『思わせもします』」と、「おつきあいはこれ以上、ご勘弁」的匂いがそこはかとなく。
そーなのよー、なんで「団塊の世代」なんてあれこれ「分析」しなけりゃいけないのか、同じ時代を生きていても、同じ人間ってわけじゃないでしょ、
人はそれぞれ違ってるんじゃないか、なんて考えるのは「個性尊重」の時代に育った私「世代」の悪いくせなんですかね、
どうも「世代論」って、読んでもしっくり来ない、「だからなんですか」と、いいたくなる。
私が持つ「団塊の世代」イメージって、若者に理不尽な説教をふっかけて居丈高に威張るくせに、いったんその若者が逆ギレすると
「話せばわかる」みたいな、「中途半端なこと言ってるんじゃねーよ!」と言いたくなるおっさんを思い出させて、
でも「団塊世代」と呼ばれる人がみんなそんな人ばかりでもないだろうしな、(あくまで、これは私の想像でしかないし)
血液型占いに「ある、ある、ある」となるような、「世代論」ってそんな感じだなあ。
前出の平野啓一郎苅部直の「自称」を「「自傷」と思った」と、なるほど、「団塊世代」の「分析」はほとんど「自虐」的であったりする、
数の多い世代がひたすらに「名前」を欲しがっているような、私の子ども時代、飽きるほど歌わされた
戦争を知らない子どもたち」の1フレーズ、「僕らの名前を覚えーてほーしいー」を思い出したよ、
団塊の世代」は自分たちを「分類」する「名前」が欲しかったのかねえ、
「個」が未だ曖昧にしか認識されない時代に、「個」として立つには脆弱な集団が「名前」を欲しがるのか、少々「哀れ」を感じたりして。
平野啓一郎の話が私には一番よかったな、この人の書くものを読んだことがないんで、読んでおこうと思った。
平野の、「戦争」から帰ってきた、つまり産まれながらに「勝ち組の子ども」であった、の指摘は面白かった。
この発想から、最近あった「勝ち組」「負け組」の言葉が出たのかな、とか。
「名前」を欲しがる一群は、まるで「千と千尋の神隠し」の「顔無し」のようでもあり、なんともね。
苅部直さん以降、松原隆一郎とかおなじみ、山田昌弘(この人はいつもながらの「芸風」がまた私のかんにさわる)とか、
面白いところでは関川夏央とか、軽く読めるので暇つぶしにはむく本でした。おしまい。