朝日新聞・書評欄から。

「死刑のための殺人」のタイトルで土浦連続通り魔事件・死刑囚の取材記録が紹介されていて、死刑がもう執行されたのを初めて知る。
紹介された本の内容は死刑囚が犯罪を起こした一因として「家庭環境の異常」に触れているようで、読んでみようかと思ったのだけれど、
こんなふうに取材側は犯罪原因のひとつに必ず「家庭環境」を上げて、だから私のような出歯亀読者が読んでみようかと引っかかる、
これでは犯罪を起こす側の根本原因が曖昧になるような気がして読むのはやめることにした。
同じ家庭環境、ましてや、同じ家族を持ったにせよ、犯罪を起こす人間は「マレ」であることを、何故か取材側ははっきりとは書かないのだよね。
先日、ネットで秋葉原事件の加害者の家族が自殺したことを知って、少なくとも同じ家庭環境であっても、彼は同じことをしなかった、
ということはつまり、家庭環境がどうであったとしても、犯罪を起こさない人は起こさないし、起こす人間は起こしてしまう、
この事実が一般化されない限り、彼のような悲惨な自殺者はいなくならないんじゃないか、
正直に言えば「もう死刑でいいだろ」的な事件の加害者でも「かわいそうな家庭環境!」を上げれば、「かわいそう!」の声が大きくなって、
加害者が妙に賞賛(?)されたりする、少なくともネットでは。まあ、主に「母親が悪い!」にしておけば万事解決だけれど。
家庭環境の劣悪さ「だけ」で確実に犯罪が起こるのならば、実はこの世界はとっくに滅びてる、世の中、夢のような家庭環境ばかりが存在するわけではないからね。
どれほど、家庭環境が劣悪であっても、犯罪とはかろうじて無関係である人間のほうが世の中、多いということをもう少し知らしめたほうが、
人間社会はうまくいくんじゃないか、
というか、私はこの手の死刑囚の家庭環境を云々するより、無残な被害者たちの生い立ちがどのようなものであったのか、
その人生がどれほど理不尽に奪われたのか、踏みにじられたのか、丹念に取材をするほうが、社会にとって有益なんじゃないか、
でも、それじゃ「センセーション」は呼べない、「死刑囚のこんなにかわいそうな、異常な家庭環境!」のほうが「売れる!」って、
書く側の人間は根本的な人間理解をどこかで間違えてないか、ってのを最近思うようになったな。
どこかで何かが間違っている、最近、ネットでも拾える話題のあれこれは、そういうものがあるな、と感じる今日この頃。
年をとったってことですかね、、