雑談。

今朝の朝日新聞で「都市で老いていく」と辻哲夫氏、戸田香氏、上野千鶴子氏の3人の意見が書かれていて
3人ともが「在宅死」を認めているのに考えさせられる。というか、この先、そうなるしかない、が道筋だものね。
実家親の介護的なことをやっていて、つくづくこの先、子供のいない人間が増えたら、私が時々やらざるを得ない雑用は誰がするんだろう、と、
今でもひとり暮らしの老人はいるのだけれど、最終的な決定権を持つ子供がとりあえずはいる人が多いので、それで事足りている部分はある。
日本の制度は「家族」が基本なのだよね。
上野氏は、介護問題の抵抗勢力は家族だ、と書かれていて、そうもなるのは結局は「制度」のせいなんだけれど、
本人が介護されるに至るまでのもろもろの苦労はやはり「家族なんだから」で済まされるとしたら、どこかで話はおかしくなる。
個人が個人として最後まで生きたいと願うのなら、制度がそれを保証しなければいけないはずでも、
完全にできるようにはなっていないのが現実、いろんなことを「無償の人材」に頼っているのだよね、家族でなくとも。
天涯孤独の人が実家近所に暮らしていて、かなり「ボケ」が進んでいるこの人の面倒を民生委員の人がやっている。
でもその民生委員を呼ぶのは近所の人たちで、近所の人たち自体も、かなり年をとっていたりして、なんだか、トホホ、って感じ、
このなんとなく感じる情けなさを「子供、いらない」の人はわからないと思う。
まあ、そういうことを書くと「子供を介護要員に考えている!」にされるんだろうが。
ネットでは「子供を作れ!と暴力行為を受けたー!」をよく聞くけれど、
子供を作った人間が子供を持った瞬間から「子供なんて作るから!」とうける言葉の暴力は計り知れないですよ。
それはたいてい「子供がかわいそー!」の形をとって「こんな女が母親なんて」と、
なんですかね、他人の子供を攻撃の道具にする暴力行為、
「つくらない」一点だけを責められるよりはるかにネタが多いですよ、
「生んだら毒親決定」がネットでは大人気だしね。
みんなが毒親だったら、それが「普通」でしかないんだよ、もう「毒親」なんて存在しないことになる。
しかし、世の中、本当に「子供を作れ!」なんて30すぎの女性に言う人は多いんですかね。
私は結婚して20年以上経つが一度も他人に言ったことはないし、それを言う知り合いもいない。
若くして結婚、出産した私に「何も考えてないんだろう」と決め付けてきた人はたくさんいたけどね。
若い母親だった私に通りすがりに嫌味な捨て台詞を言う人に会ったことは山ほどあるし
ネットで書き始めてから「お前が母親なんて!」と責められたことも数え切れないほどある。
ネットには私の知らない広大な世界が広がっているようだけれど、私の現実世界は荒涼、閑散としている。
その理由がどこにあるか、ネットの巧みな言葉の羅列から、垣間見える気がする。
生命の実感がないこと、生きる、死ぬ、の現実が見えてない人間が言葉だけを上手に組み立てるのは恐ろしいことだと思う。
「多様性を!」と歌い上げながら、自身の子供という絶対的多様性を受け入れられないのは不思議なことだとも思う。
それで救えるものはなんだろう、自身のナルシシズム
なんにしても壊れていく今の仕組みの中から、多分何かは生まれるだろう。
「一人で死んだ後始末」の仕組みを考えていかないとね。
数少なくなった子供達に山ほどかかるだろうこの後始末を押し付けないようにしたいものだ。