ネット雑記。

昨日、「ネットで有象無象が書くようになったから食えなくなったぜ」みたいなまとめを読んで
有象無象が書くものなんてほとんどの人が読むわけではないんで、何故そういう発想が生まれるのか不思議。
ネットでお金払って読みたい人のところを読む人だっているんだから、「食えない!」はネットの日記書きへの八つ当たりじゃないかな。
食えないのは不況のせいだよなあ、「広告費」が激減してそれが回ってたところに届かなくなった、
しかし、今、ドラッカーの紹介本がベストセラーになる時代だし、やりようによってはネットで儲ける方法もあるような。
私はネットに書く事で、読むことに別の楽しみが出来たな、買う本も増えた気がする。
目下のところ、私が不思議なのは、ネットではそこそこ面白く読めた文章でもなぜか書籍になるとそれほどでもなくなる、で、
これはどうしたものか、私自身の感覚の歪みなのか、いまだわからない。
ネットというものの「軽さ」が言葉の趣を変えているのかもしれない、
でも「紙」の上になると曖昧な定義付しか出来ていない個人的な「言葉」はその「軽薄」さを、目立たせてしまう、
ネットの「手軽さ」は「軽薄さ」を隠す、いいクッションになるのかもしれないな。
「ブログ」という形態がいつまで続くか。
ツイッターが始まって以来、はてなで目立った「揉め事」が少なくなったことを見ても「ブログ」を書きはじめる人は少なくなる気がする。
既に「デジタル・ネイティブ」である私の子供は「ブログ」を読むことすらほとんどしないものね、ましてや書く事をや。
いわゆるかつての「ブロガー」が「つながる」ことを目標としていたことを私の子供世代はやや冷ややかに見る、
「見ず知らずの人間とそんな形でつながって何が面白いの?」
まあ「テレクラ」で心を癒されるらしい人を軽蔑する感覚に似ているかも。
ネットで特に目的もなく続けていく個人的な「日記」は残っても「ブログ」は残るかどうか、
かつて、私の親世代とその前後は「文通」であるだとか、「短歌サークル」に所属することで「つながる」ことがはやったようだが
それを子供世代である私は「なんでそんなことを?」とやや滑稽思った覚えがある。
それをネットの「ブログ」への感覚を子供に聞くたび思い出す。
ま、中高年が必死になってやってることって、若者には痛く見えるものよ、、って、結論はそこか。
老兵は静かに去ることはできないものよね、、、(涙)