いろいろ。

ある種の人間が「自分もいじめられていたけど」と前置いて「いじめられる側にも問題が」と言い出すのを見る度、
いつから「イジメ」についてしたり顔で語ることが正義ぶる手段になったんだろうと思うな。
本当にいじめられていたとしたら、イジメのケースはひとつひとつ「違う」がわかるだろうにね。
「イジメは常にいじめられる側にも問題がある」なんて「公式」はないんだよ、そんなに単純なら、とっくに片のつく話だ。
大津のイジメ事件はネットの情報を半分に聞くとしても相当凄惨で、自殺したお子さんの親御さんは命を削る思いで告発に挑んでいるんだろう。
イジメられた側の悲惨は、イジメが発覚したあとにも続く、その現実を突きつけたこの件はどうにかして、納得するかたちに落ち着いてもらいたい。
でも、それは多分「いじめられた側」に「黙れ」と言うことだったりして、それは結局一番手っ取り早い、だって「一人」だもの、
「みんな」の幸せのためには「一人」が犠牲になるのはしかたがない、
そういう「意識」もイジメ事件には絡んできて、いじめられた側もそれを理解できるだけに深く傷つく。
いじめ問題でもっとも許し難いことは、特に被害にあった子どもがこの世界を信じることが出来なくなること、
生きるに値する素晴らしい世界であるとは思えなくなる、本当は、美しい世界であるというのに。
多分、これはいじめる側にも言えることで、自分と同じ人間をどこまでも追いつめようと残虐さをむき出しにするのはこの世界を信じていないから。
悪意を極限まで発露することで、世界が醜いと主張する、何かを信じる能力に欠けている。
下の子がイジメ事件を起こした生徒たちを「弱い」と言うのは多分、不確かな何かを信じる勇気を持っていないからなんだろう。子どもから教わることがよくある。
大津の事件は告発した子どもたちのためにも、何とかなって欲しいものだが、「イジメがいつ行われたか証明しろ」とは、もうそれを言い出したヤツ、死ねよ、と思った。
こんなに醜い言葉を平気ではき出せる人間もこの世界にはいる。でもそんな人間でも生きていける程度に世界は広くゆるい。
「死んではいけない」はそういうことなんだよ、どんなあほな大人でも生きてる、いじめられている子どもたちには死を選ばずに世界を信用して欲しい。
生きるに値する世界なのだからね。